OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT

真喜志勉 【美術家】 (1941年~)
沖縄県那覇市生まれ。多摩美術大学洋画科(現絵画科)卒。復帰を前に1972年ニューヨークで当時の現代美術に触れる。以後アメリカ戦後美術の、特にポップアートに影響を受けた作品を制作する。初期の頃は前衛的な展示もするが、平面の仕事に入り、漆喰で塗固めたモノクロの壁シリーズを展開する。90年代半ばからは沖縄の基地問題や社会的な批判を盛り込んだ作品にとり組む。最近はオスプレイ問題等をポップ的なスタイルで展示している。団体やグループに所属せず、現在にいたるまで個展を毎年開催している。

インタヴュー

収録日:2012年3月9日
収録場所:自宅アトリエ(浦添市)
聞き手:町田恵美、翁長直樹 撮影:大山健治
書き起こし:大山健治

町田:今、浦添の前田なんですけれども、生まれもこちらですか?

真喜志:生まれはね那覇。久茂地です。

町田:都会ですね。

真喜志:久茂地に生まれて、3歳のとき10・10空襲の前に山原のほうへ疎開して、幼稚園まで山原にいたかな?で、戦後、1945年に石川市に出てきた。ちょうどその頃ね、石川は疎開してた人間みんな集められて、一時期、人口が結構多かったんです。で、石川(の城前)小学校4年まで出て4年から大道小学校、真和志中学、那覇高校という、まあ、エリートコースを進んで……。

町田:なるほど、なるほど(笑)。

真喜志:石川にいた時の思い出というのは、伊波城跡の崖下に、大きな艦砲の穴が開いててそこを米軍がチリ捨て場に使ってたわけ。トラックで持ってきてね。で、僕らはそこへ群がってちょうど今のフィリピンのスモーキーマウンテン状態でね、チリをほじくるとチョコレートのさ、ちょっと粉の吹いたものとか、缶詰とか、こう、角のへこんだ様な缶詰とかね、もう宝物の山だったね。で、僕はね嬉しくて弟も連れて、まあ食料品漁ってたの。お腹空いてるからさ(笑)。で、そういう僕らを見て、青年将校上がりみたいな、なんか凛々しい人が僕らを叱るわけよ。「貴様ら、昨日までの敵が捨てたのを食って恥を知れ!」って言ってるんだよね。で、そいつのポケットを見たらさ、ラッキーストライクが入っているんだよ。何だこのやろうと思ってね(笑)。それから僕はもうへそ曲がりになってさ。

町田:あー、それがきっかけで。

真喜志:今まで直らない(笑)。

町田:さっき弟さんっておっしゃってたけども兄弟は?

真喜志:男3名女2人でした。10年前ぐらいに1人欠けちゃったけど。今4名兄弟。

町田:ご両親は、実家で……。

真喜志:紳士服のテーラーでしたね。石川にいた頃、親父はキャンプ桑江ですね。今もう無いけども、そこの中でコンセット一つ貰って洋服屋をしてた。テーラーを。で、クリスマスシーズンになると僕ら遊びに行くわけね、キャンプ桑江まで。キャッスルテラスクラブっていうのがあってそこで沖縄人バンド、フィリピン人バンドのビッグバンドでジャズを聴いてね、だから小学校の頃からジャズ好きで。

町田:なるほど、なるほど、前にお写真をお父様が写っているのを私見たことがあって、すごくおしゃれな……。

真喜志:まあまあ洋服屋ですからね。

町田:真喜志さんも凄いおしゃれで、いつも。

真喜志:いやいや私はゆぐりはいからー(笑)。

町田:で、そのあとエリートコースを学ばれてる時は真喜志さんにとって美術教科はどうでしたか?

真喜志:そうですね。僕はまあ小学校から校内写生大会とかそういう時だけは何故か優秀な成績でさ。他のお勉強は全くだめで、結局、美大しか行く道が無かったんだね。親父は商売人だから美大に入ると「女性の裸ばかり見てフラーになるから」と猛反対された。僕のおじきという人が物分りのいい人でね、まあこれからの人はそういうね文化的なことも嗜んだ方がいいということで、親父に渋々了解してもらって美大に行くことになったけどね。

町田:美大に行く前に那覇高校時代に島田寛平さんにずっと習われていたと思うんですけど、その時の授業は?

真喜志:島田寛平さんは僕の恩師です。で、その人の美術の教育方針というのがすごくユニークというかな、美術クラブの部屋を始まる前と終わった後必ず掃除させる、床を雑巾がけしてね。僕らって絵描きのアトリエていうのはとっちらかっていてね、雑然としているイメージあったけど。寛平先生はそういうこと無くてね。道具箱みても筆の手入れが行き届いて、きちっと道具の管理をしてた先生でしたね。だから僕らもそれを習おうとするんだけれどもどうしても途中で絵の具がついたまま固まってしまったりすることがあったけどね、先生の教育のお陰というか、今でも僕のアトリエがとっちらかってるとなんか仕事が進まない。仕事した後は必ず片付けて、そういうふうにまだしてますけどね。まあ、寛平先生いなければ僕は美術大学まで進まなかったかもしれない。で、僕が入学した後に那覇高から次々後輩たちが来てね。5、6名はいたかな?一時期。で、寛平先生も上野の公募展に戦前出してて長いこと中断しておったけども、そこへ再び出品するようになって、で、僕ら夏休みに帰ってきちゃ作品を預かって上野まで搬入してね、で、むこうで集まって寛平先生の思い出話をした、つい昨日みたいな感じがしてますけどね。卒業して大分経ってから、那覇高出身のね、美術やってる人間多いんですよね。そういう人達に働きかけて寛平さんの本を作ろうと。画集というには作品が残ってないということでね、稲嶺(成祚)先輩はじめ、先輩方と相談して教え子達の文章も入れて結構いい本が出来ました。

町田:私も拝見したことがあります。その後、那覇高卒業して、県外の多摩美に進まれるんですけども、そもそも沖縄を離れようと思った……。

真喜志:うーんそうですね、その頃は琉球大学の教育学部に美術のコースもあったんですけど、どうしてもやっぱり東京に憧れがあってね、それもやっぱり寛平先生が東京はいいとこだと。ねえ、新橋とかさあ(笑)、吉原とか(笑)もう凄い話をね、高校生の僕らにするわけだ。これは行かん手はないなと。で、ちょうどその頃にまた与儀達治先輩が帰ってきて、昔の沖縄タイムスホールで個展をなさったんだよね。で、その時に多摩美というのを初めて知って、もうそれから一直線ですね。で、まあ4年の間にあっという間にシティーボーイになってさ(笑)。田舎の少年だったのが。まあ、銀座の画廊をまわり渋谷新宿のジャズ喫茶通い。楽しかったな東京は。

町田:その時代、多摩美の時の先輩、後輩とかも含めて影響を受けた方とか、影響を受けた作風などはどういった作品が。

真喜志:うんそうだね、僕が学生の頃は、まあちょうど「クール」「ホット」ということがね流行ってて、クールな抽象絵画からホットな抽象絵画。あと、アメリカのモダンアートが盛んに東京に出た頃ですよね。で、まあ学内的に言うと僕の先輩、比嘉(良治)さんが名護出身の人で、よく頑張る人でね、見習いたいなあと思いながらも、まああれほどは頑張らなかったよな。で、読売アンデパンダンというのがありましてね、その頃、60年代後半か。僕ら作品を見て度肝を抜かれるわけですよ。要するに、ドラム缶に作家本人が入ってて「これが作品だ」とかさ篠原有司男とか、まあそうそうたるネオダダの連中ですよね、暴れていた頃、もう僕らまだ四角いキャンバスにさ、抽象絵画を一生懸命やってるわけ。要するに「反芸術だ」と言われてもね、最初こうピンとこなかったけど、だんだんまあ長年そういった作品に触れてくると、だんだんにねえそういう「コンセプチュアルな世界もあるな」ということが、うすうす分かったというのが大学の3年ぐらいでしたね。それから作風も大分変わってきましたけど。

町田:個展を1961年になさって。

真喜志:61年というと、僕が大学二年か三年か。まあ、あの多摩美で制作した作品を持ち帰って、第一回の展覧会は確か、与儀にあった琉米文化会館というとこでやって。

翁長:与儀ですね。

真喜志:今の県警本部のあるところに、琉米文化会館、要するにアメリカさんが占領政策をねスムーズに進めるために、沖縄の人民にですねアメリカの音楽だとか本だとかそういった文化的な施設を作ることによって、自分たちの統治政策に貢献しようとの目的なんでしょうけども、僕はその会場を借りて第一回の展覧会をやりました。亡くなられた安谷屋正義先生とか大きな先輩方がいらっしゃったけれども、僕はそういう人たちに出会って一緒に活動するっていう時間がなくてね、みなさん先輩方亡くなられて、寂しい思いしましたけれども、まあ俺もあっという間になんか知らんけど沖縄の画壇の中じゃ長老扱いになって困っているけどね(笑)。自分の精神年齢まだ17、8で止まってるんだけど……。

町田:永遠のセブンティーンですね(笑)。今、お名前が挙がった安谷屋さんに影響を受けたっていうのをもう少しお話を。

真喜志:ええそうですね、あの、このあいだ美術館で回顧展がありましたね、あの、白い鉄塔《塔》の絵の前で僕は、高校三年かあれは、一時間ぐらいずっと立ちっぱなしで見ていましたけどね、懐かしかったなあ、あの絵と再会出来て。で、まぁあの頃の沖縄画壇というのは要するに「ローカル」とか或いは「抽象か写実か」ということが盛んに議論されてる頃で、安谷屋先生の絵はやっぱりそういう中でも突出して僕ら若者にこう、鼓舞すると言うか、勇気を与える作品だったと思いますね。今思い出しますとね。絵画と言うものの「厳しさ」というのをね、作品を通して僕らは教えられたような気がしてます。

町田:その頃の、17歳の気持ちを今と変わらずお持ちということなんですが、多摩美卒業後はすぐ沖縄に戻って。

真喜志:ええそうですね。卒業して、美大で4ヵ年、親の金でねえ、ふんだんに使って遊ばしてもらってたから、帰ってきて手伝うというのが条件だった。で、4ヵ年働いて、洋服屋の小僧みたいなもんですよね。サンプルの生地かついであっちこっちセールス行ったり商売の手伝いを4ヵ年して、もうこれでいいだろうと思ってね、「お父さん、俺もう絵描きになるから、もうそろそろ店やめる」と言ったら「馬鹿たれ、お前の働き足りない!」って「あと3年だ!」って(笑)。で、7ヵ年洋服屋の丁稚小僧みたいなことやりましてね。まあ、それでいろいろストレスがたまったのかなあ、えー車に走りましてね。マフラーを抜いて直結のエグゾーストでバラバラバラッ!って街中を走って、親戚中からも迫眼視されて「あれ、美大行ってフラーなってる」「言わんこっちゃない」と(笑)。で、まあ親父もさすがに親子ながら可哀想だと思ったんでしょ。「もうやめていいよ」というからさ。で、まあ結婚もして子供もいましたけど「ありがとう」といってニューヨークへ、ちょうど一年。家出状態で行ったわけですよ。それでまあ、そこでまた先ほど出た名護の先輩、比嘉さんに再会して、その頃ね、豊平ヨシオとかあと多摩美の後輩、宮城明君なんかもニューヨークにいてね、まあ、豊平と僕は入れ替わりになってるけど、宮城明とニューヨークでダブっている。200ドル持ってたのよ。そしたらまあ一ヶ月足らずで無くなってきてねえ、美術館まわったりさ遊んでいるうちに、あと20ドルしかない、まいったなあって、もう卒業もしているわけだからねえ、親元から金送れとも言うわけにいかないから仕事探したんだけどなかなか見つからない。で、あとひとまわりと思ってワシントンスクエアでコーラ一本飲んでそれからダウンタウンの方へ歩いて、それでねトンプソン・ストリートだっけな、角さしかかったらね上からジャズのリハーサルの音聞こえるんだよ。もう昔耳にタコができるくらい聞いた「モーニン」と言う曲が、タッタ、タタタタ、タッタってやつね、見上げたらね"Village Gate"って看板がある。ここだと思ってね飛び込んでいって、何でも下働き何でもやるからとにかく仕事くれといったら、黒人女性がフロントに座っていてね「じゃあ明日来てごらん。オーナー明日来るから、会ってごらん」ていうからさ翌日いったら即OKでね。要するにジャズクラブの皿洗い。もう僕にとって天国みたいな仕事見つかって、半年いたかな。毎日、午前3時4時ぐらいまで演奏があるわけですよ。で、こっちは台所で皿洗いながらそれをずっと聞いてて、まあまあほんとにラッキーと言うか。で、そこでそのリハーサルしてたボビー・ティモンズという「モーニン」の作曲者でね、70年代初めに東京にアートブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズというジャズのグループが来てそれから東京の若もんがそのモダンジャズと言うものに対してもう一気にこう沸騰すると言うか、あっちこっちにジャズ喫茶ができて、その火付け役みたいな人なんだよね。まあそういう人のリハーサルの音に引っ張られたと。なんか因縁めいたものを感じてね、僕は一生懸命働いたわけ。まあ一生懸命働くったってごく普通に働いていたんだけど、まあ彼らアメリカ人から見るとよくやるやつだと。で、オーナーに気に入られてさ。ヘネシーかなんか一本もらって「おいマキシずっとこっちにいろ」と。いろいろ世話するからずっと居ろと。でまあねえ、「ありがたいお言葉ですが私には沖縄に幼い娘と若い奥さんが居て、帰らなきゃならない身の上でござんす」(笑)ってさ。これ英語で言ったんだよ。で、ちょうど一年の約束で帰ってきてまあニューヨーク懐かしいなあ、40年前ですね。そのストーリーは。だからそのオーナーさんもおそらくこの世にいないでしょう。"Village Gate"の音響の担当してた青年がまだ若かったからひょっとしたらまだ元気かもしれない。今度ニューヨークタイムズに広告出そうかな(笑)。この人探してますって。

町田:制作などはされてなかったですか、ニューヨークでは。

真喜志:制作はしてないですね。まあ、スケッチ的にメモ程度にはやってましたけどね。まあ半年ジャズクラブに居てあと残り半年はね、トラックのドライバー。ラッキーなことに沖縄出身の空手の先生が道場を持ちながらその道場の生徒を使ってね、日通の下請けのトラック会社やってたんですよ。だから僕はロングアイランドの職場へ行って朝からケネディ空港から荷物を積んでマンハッタンに配達に出るわけね。その頃、例のツインタワーもまだ出来たばっかりで、その中に50階60階あたりかな、日本の商社が入っているわけね。そこへ日本からの荷物を届けるということを半年ぐらいやってて、で、夜になってもこの日本の企業の入っているフロアはねずっと電気ついてるでしょ。で、アメリカ人が「working horic 」まだいるよって笑ってたんだけどね。そのツインタワーもついに姿を消して、さびしい限りですな。

町田:ジャズクラブとの偶然の出会いを含めてとんとんときている感じがするんですが、困ったこととか無かったですか?

真喜志:別に無かったですね。

町田:楽しく(笑)。

真喜志:楽しく。まあ、おそらくねジャズクラブだから勤まったんでしょうね。これが日本レストランの皿洗いだったら三日持たないでしょう。板前にしょっちゅうこずかれてさあ、柳包丁でつかれたりなんかすると三日持たなかったでしょう。まあジャズクラブで良かったってねえ。あとトラックも結構フロリダあたりまで商品を運んだりしてね、結構楽しかったですよ。ちょうどほら、コンボイという映画あるじゃない、トラックドライバーの。あんな気分だよね。で、ガソリンタンクを両方に積んでて満タンにして出る。一方が空になるともう1人の相棒がハンドル変わるわけね。空になったやつを詰めて、こっちのタンクを彼が空になるまで走る。そいで交代交代で走ってて、楽しかった。でね、面白いことにね、まあ出発するマンハッタンから出るときはこっちの知ってる限りのさ、ジャズの曲を口ずさみながら行くんだけどだんだん疲れてくると、沖縄民謡が出てくる(笑)。どうにもならなくなると北島三郎とかさ(笑)。

町田:そこは演歌で(笑)。

真喜志:演歌が出てきて。あれ不思議だね。最初気取ってさルート66とか言ってやってんだけどね、だんだん「はるばる来たぜ北国へ」みたいになっちゃってさ。なんだ俺、日本人じゃねえか(笑)。

町田:きっかり一年の約束の期間を経て沖縄に戻って、その後ペントハウス(絵画教室)は。

真喜志:えっとそうですね、ペントハウスはニューヨークから帰って2年、3年目か。広告代理店といったら大げさだけど、デザイン会社。シルクスクリーンで印刷する会社だったけどね、そこにいて、それからあと万年社という広告代理店に……。

民子:違うよ。

真喜志:ん?万年社が先か?

民子:万年社は行く前。

真喜志:あ、行く前か(笑)。記憶がとびとびになってる。

民子:どうでもいいんだけどさ(笑)。

真喜志:帰ってきてから万年社じゃないの?あ、行く前だ、そのアドプロは。洋服屋やめて仕事が無いから、まあそこのオーナーの徳永さんと友達になったんだけど、そこへ仕事をもらって、若い連中とね、一年か、工業高校卒業したてのデザイン科の若いまじめな青年たちがいっぱいいるんだけどね。で、僕が入ったことによって彼らも酒を覚えさ……。

町田:遊びを覚えて。

民子:遊びを教えて(笑)。

真喜志:徳永さんも困ったもんだと言いながらね、まあしょうがないかって置いてくれたんだけど。帰ってきて、さあ仕事何するかったってね、絵が売れるわけじゃないし、食いつぶれるのは目に見えているのでいろいろあれこれ考えて、絵画教室という話になってね。その部屋を借りて27年。けっこう僕にしちゃ辛抱強く勤めたなと思うんだけど。まあ、待ちの仕事だからね。要するに生徒が来なきゃしょうがないんで、生徒がただ来るのをひたすら待ってデッサンを教えるわけでもなく、そうだな、酒とジャズパーティーと、で、生徒たちそういう中でも本人がしっかりしているんでしょうね。ちゃんと美大に入ったりする子も出るようになって。えっとね、27年で生徒の在籍数が通し番号でね3000近くまで行って、今市会議員ぐらいだったら当選するんじゃない(笑)。浦添市議。

町田:教え子の中で、今活動してる方いますか?

真喜志:えっとね、そうだね中堅に金城満くんとかね、あの連中。あと陶芸の人とか多いかな。赤嶺とかいろいろいます。ペントハウスのOBも年に一回ここで新年会やる。それだけが楽しみで生きてるという人もいますからね(笑)。新年会、鍋パーティーをやるんだね。で、そのときも張り切って来るんだけどねみんな。大体二人か三人ぐらいは酔いつぶれて、この部屋で雑魚寝して……。

民子:やっぱりほら、ペントハウスでの忘年会がね、忘れられないって。

町田:凄かったですからね。

民子:あの印象が強くて。

真喜志:屋良文雄さんのジャズバンドが入ってね、大騒ぎでしたよ。で、2時3時まで騒ぐでしょ。そうするとね、おまわりさんが「迷惑防止条例にひっかっかってますから静かにしてください」。忘年会、一緒にやろうと「そうしたいのは山々ですが、ただいま公務執行中です」でもね、彼は硬すぎてだめだね、断られた。俺だったらすぐ制服脱いで一緒になって飲むんだけどね。で、まあジャズだから文句が来たんだろうな。例えば三線ぐわーでも弾いてりゃさ、そんな文句来ないと思うけど。で、大家さんに聞いたら、すぐ近くにうるさいおじいがいる。もう亡くなるよ心配するなって(笑)。 そしたら2年ぐらいしたら文句言わなくなって。亡くなったんだなきっと。ジャズで早死にさせたかな。

町田:絵画教室ペントハウスをしながらご自身の作家活動をずっと続けてらっしゃると思うんですけれども、その中でも『'76展』についてお話をお聞きしたいです。その時、出品した作品はどういったものですか?

真喜志:えっとね、あれは確かね壷川あたりの古紙回収業者に行ってね、新聞とか週刊誌とか、あれは2m×2mの立方体かな、バンドできつく縛ったようなのがあるんですよ。それを7個お借りして昔のタイムスホールに運び込んで、新聞紙の塊だけ僕は出品しました。であっちこっちにね、バネのついたネズミ捕りがあるでしょ。あれを仕掛けたりね。あとお人形さんの、マネキンの顔をまっちろけに塗って口のとこへバッテンを黒いテープ張ったり、あとビクターの犬か、そういうので構成して、今で言うインスタレーションか。展覧会6人、7人かなメンバー。山城(見信)さんとか豊平(ヨシオ)君とか、あと新垣2人か、喜村。7人か。ちょうどそうね76年、76と書いて、こう抹消痕というの鉛筆でざああとやったような、76、抹消痕、展とやったんだけどね。まあみんなその時、平面じゃなくて立体が主でね。で、その展覧会をちょっとこう評した人がいて、で、僕は雑文の中でさあ、「大工にカンナのかけ方を教える変なやつがいる」って書いてさ、その本人はとても嫌な思いをしたんだろうけど、まあ名前は明かさないほうがいい(笑)。だから「月に二十日は闇の夜だぜ」って書いてさ、夜道に気をつけろって。

翁長:海洋博と関係があったんですかね。

真喜志:海洋博の年かな?76は。

翁長:海洋博終わって翌年です。

真喜志:ああ、終わってあのドサクサのときだな。

町田:そういった作品ってその当時は他には見られました、インスタレーションという手法は。

真喜志:うんとね、無かったね。その後もほとんど無いし、最近ですね。若い人たちがいろんなことを始めてるのは。まあ、その前に琉大の美術科のグループがグループゼロとかいってね。漫湖でもの浮かべたりいろんなことやってましたよね。

民子:新里さんなんかもやってたよね。

町田:新里義和?

真喜志:あ、新里義和ね。

町田:まわりからは驚かれた感じですかね。

真喜志:まあ僕らとしてはそのつもりだったけど、まわりは冷ややかな反応でした(笑)。また、馬鹿なことしてらあみたいに。

町田:76年だと沖縄県立博物館・美術館のコレクションの《カウントダウン》が。

真喜志:そうですね、重なってますね。

町田:その作品についても少し。

真喜志:うん、まああれも要するに僕は73年かニューヨークから帰ってきたのは。で、2年3年後にあの作品が出来てますからね。で、アメリカから帰ってきた時期っていうのは、いろんな写真を資料にしてそれをコラージュ風に画面にいろんな目に馴染んだようなシーンを重ねて、油絵で描いてたんですよね。それからしばらくしてアクリルに移って、あの《カウントダウン》までは油かあれ。

翁長:油ですね。

真喜志:あの後にアクリルになって、嘉手納にあるジェット機、いろんな種類のジェット機の形をね、わりとこう根詰めて細部まで描いていたんだけど、だんだんに細かい描写が抜けてきて、鉛筆のラインだけになってね、ついに飛行機が姿を消して、まあ、抽象、真っ黒の画面になって。で、その頃何故飛行機が消えたの?って聞く人がいてね、ちょうどフォークランド紛争の頃だった。だからみんなフォークランドに飛んでいっちゃったって(笑)。僕はそういう絵に対する質問に対してまっすぐに答えきれない人なんだよね。必ずどっかで茶化してしまう。だからまあ僕の絵描きとしての評判はなかなか芳しくない(笑)。遊び人としか思われてない。

町田:戦闘機シリーズだけじゃなくて今も続けていらっしゃる辺野古シリーズなども含めて、はぐらかすってわけではなくわりと言葉遊びが入ってる。

真喜志:そうですね。僕としてはね、わりとまじめにやってるつもりですけどね。まあでもねえ、いろんなタイプの人がいるじゃない。要するにね。真っ直ぐにさあ「私は平和を求める」とか、まあ、見りゃわかるんだよね。平和でなきゃ描けないだろうしさ。例えば僕のジェット機の絵を見て「平和美術展に出品してくれないか。」って頼んだ女史もいたけど、いや、俺はジェット機好きで描いてんだと。むしろ好戦画家と呼んでくれなんて、つまらん誤解をうけたこともある。で、結局ほら沖縄で制作するとなるとどうしてもねえ現実の問題にぶち当たるでしょ。まあ今や辺野古が焦点なんだけど。で、それに対して目を瞑るわけにはいかんからね。いろんなことを、文字を入れたりいろんな駄洒落を飛ばしながらそれを作品化してますけどね。で、あれは2004年か。沖国大にヘリが落っこったでしょ。あの時もねえ、やっぱり僕はだいたいまあ9月の3週、4週に個展をずっとやってきてるんだけど、うーんあれが8月13日か。だからちょうどね、準備に取り掛かってる最中だったのね。で、これは大変だっていうんで、車飛ばして行ったら、ちょうど真栄原の十字路通り越してしばらく行くとね、もうイエローのラインが引かれているわけ。KEEP OUTって書かれてる。で、兵隊さんに「What's going on?」何事か?っていったら「No comment」で、民の警察が「ちょっと交通規制に入ってます。通れません。」ていうから、「わかった」ってUターンして沖国大の向かいにね小高い丘があってその4階建てのアパートがあった。「あ、あの屋上上ればOK」っていってさ、車止めて階段上がろうとしたら警察官が「報道関係以外立ち入り禁止です」「(俺は)タイムスの写真部のチーフだよ」って(笑)。そしたら大城弘明が上にいてさ「タイムスのチーフって言ってきたよ」「いったー、カメラもたんぐとぅ写真部のチーフも何も無い」って笑われてさ。で、まあ急遽今まで準備したのやめて、その黒い壁の、壁みたいな絵を作ったんだね。で、去年かな、要するに沖国大の生徒たちがそういった事件もうあまり記憶がないと、もう生徒も入れ替わってるでしょ。あまり伝わってないんだよ。で、学生たちが無関心だというのを新聞でちょっと見たから、「まずいなあ」ってさ、で、考えてみると沖国大に昔僕の絵画教室でね、趣味で絵を描いてた石原教授というのがいるの思い出してさ、電話してこうこうこうで僕はこういう作品持ってるけど寄贈しようと思うって言ったら、「あ、いいんですか?」彼はすぐ副学長つれて見に来て。学長、三役に会議かけて「じゃあ受け入れましょう」ということになってね、今持っていってる。来週火曜日か、感謝状あげるって言うからさ、それよりキャッシュがいいなと思うんだけどね、そうも言えないしな(笑)。感謝状もらいに行きますよ。

町田:同じ紙でも(笑)。じゃ今作品かけられているんですか?

真喜志:あのね、沖国大の図書館の上にコーナーがあるんだな、ヘリの事件を扱った資料コーナーが。そこへ入れることになってるはず。

町田:かけられたら、また見に行こう。

真喜志:だからね、自分の絵をそういうほら公の場に寄贈するというのは、初めてのこと。だから自分の絵が少しは役に立つのかなと思って嬉しくてしょうがない。これまで絵が役に立つと思ったことがないからね。まあ、学生たちがそれ見てさ、「なんだこの、真っ黒いの」ぐらいでいいんだよね、反応として。なんだ何でこんなのがあるんだ。で、まあやっぱり大学生だったらいろんな資料見るようになるでしょ。まあちょっとした理解の手助けにでもなればいいかなと思っているんだけどね。――もうこれぐらいでいいんじゃない?こんなもんで。

町田:あと、しつこくてすいません。やっぱり作品のテーマというかモチーフがそうなので色味もブラックだったり、シルバーがメインになるのかなと思っているんですけど、でも普段お召し物がオレンジだったり、赤だったり、色に対して、カラーを作品に取り入れたりというのはお考えには。

真喜志:ええ、そうね、作品そのものにカラフルなものを投入する気はあまり無いんだよね。まあ、着てるものは結構派手だけど、イタリアのファイヤーレッドのさ、フェラーリみたいなワッペンくっつけたりして。あれは何かというと、この家計がね火の車というのを表現してる(笑)。ねえ、生活は明るく、作品は暗くていう。あれ誰だっけ……。

民子:さだまさし(笑)。

真喜志:さだまさし。あの歌も暗いでしょ。あまり作品を明るくするとさ、なんか内容が無いみたい見えるじゃない。いかにもちょっと暗いの描いたらさ、裏に何かあるぞってみんな思うんだよね。実際は何も無いんだよ。下地にベニヤ板があるだけだ。

町田:多分、現状というか、常々見ている真喜志さんから見た色が、やっぱりそういう色になってしまうのかなていうのが。

真喜志:まあよくね、南の作家だから明るいでしょうという人がいるんだけど。南にいるから明るい絵を描くわけにいかないんだよね。確かにね、まあ夏場、太陽ぎらぎらしてさ、青い海、青い空ではあるんだけど、その太陽の光が強ければ強いほど、下に写ってる影は濃いんだよ。ほとんど黒に近いぐらいでね。だから、沖縄の現実の色というのはそんなきらきらしたもんじゃないと思いますね。で、まあね、真っ黒とかシルバー、ホワイト、あとアクセント的に小さな赤点とかブルー、グリーンとかちょこちょこと置いてるけど、まぁあの赤点というのは要するにほら、誰か間違えてさ、売約済みかな?(笑)で、次のやつ見て「これ買います」誘い水なんだよね(笑)。

翁長:真喜志さん、このポップアート、まじめな話なんですけど、影響と言うのはどの程度。

真喜志:ええもう、おおありだよね。だから、まあジャズに馴染んだということもあり、或いはニューヨークの体験がありでね。で、アンディ・ウォーホールの作品があるでしょ、プレスリーが拳銃構えたやつ。あれを僕は、あの現物をツインタワーの中で見た。そのツインタワーの中に、何とかinsurance。保険会社の受付のバックにね、エルビス・プレスリーがバッとこう拳銃を構えてる作品があるんだよ。「洒落てるなあ」と思ってね。生命保険会社よ。あんな西部劇がさ。これ日本の企業がそこまでセンス磨けないなと思ったね。あれがもうあっという間に落ちたからなあ。あの作品もう燃え尽きたんじゃないかと思って。

翁長:やっぱりあの時代のウォーホールって凄くかっこいい?

真喜志:うん、かっこいいねえ。で、僕はだから復帰の年か。シルクスクリーンで硫黄島の星条旗が立ってるさあ、あの旗を日章旗に変えて、あとこっち側の壁に東条英機のシルエット、シルクスクリーンで。あれ方眼紙かな、印刷して、壁いっぱいに張ったことあるんだけど。まあ、気分としてはアンディ・ウォーホールだよね。アンディ・ウォーホールの真似したと言ってもいい。

翁長:この復帰することとアメリカ行ったことと少し関係あるんですか。

真喜志:えっとね、そうだね、まあ今まで要するに沖縄統治してきたアメリカという本国はどういうもんか見たかったのね。まあこっち来てるのは兵隊さんでしょ。それも若いGIだしさ、あまり文化の香りする奴いないから、本国はどうなんだろうと。ということとジャズを聴きたい、アメリカの美術館を回りたい、これだけの目的で行ったんだけどね。まあ、結局その目的は大体達成して、充実した一年。だから、あの体験が無ければ今の僕は無いかもしれないと思うぐらいだね。要するに皿洗いなんてのも底辺の底辺の仕事でしょ。それにじっと耐えた僕(笑)。なんと強いことかと思ってね。だからそういう体験無ければもうほら国際通りのさ、洋服屋のボンボンで遊ぶことしか知らんかったからね。あそこで要するに人間が生きるとはどういうことかということをね、みっちり学んだつもり。だから、貧乏怖くはないんだよね。うん、餓死しなきゃいいやぐらいしか思ってない。

翁長:このポップ・アートのアメリカと現実の沖縄の基地が矛盾というのを抱えているはずですけど、その辺はどんな感じで。

真喜志:うーんそうだね、だから、まあアンディ・ウォーホールみたいにあっけらかんとした表現は僕は出来ないな。それ何故かと言うとやっぱりねえ、世界でも例が無いでしょ。要するに他国の軍隊がずっと駐留する国というのは。まあここは島だけど。要するに日本国をね、守るためにだな、その前の戦争もさ、捨石にされたんだよね。本土決戦の前に沖縄で持久戦をして、で、本土で反撃をするという日本政府の目論見でしょ。そういう捨石にされて、なおかつ占領軍が入ってきて居座って、で、復帰が無ければ日本の戦後は終わらんという馬鹿な男もいたけどさ、まだ沖縄、戦後終わってないね。だからこういう島にいて美術表現に関わるということはどういうことかと。やっぱりね、ひねくれないとやっていけないよ。あまり、まっとうな精神だと狂っちゃうだろうね。だから全てを笑いでごまかしながら、やっぱり仕事を続けるしかないなあと思ってますね。

翁長:ポップの手法というのは有効ですか?

真喜志:有効ですね。だから、まあこの作品もこんなことしてるけどさ、Vサインにも見えるしV字型の発想もあるし、意味合いをたくさん持たせる、で、見る人がどう構成するか、これがね僕の目論見ですけどね。なんかいかにもさパンッとかいたのがまっすぐ伝わるというのもインパクトがあっていいんだろうけど、ああかなこうかなとね、ひねくりまわしてる鑑賞の仕方に僕は興味がある。あまりこの作品はこういうもんだ、答えが一つしかないというのは何か辛いなと思うんだよね。だからまあ、この間のマリリン・モンローの案内状でもね、嘉数公園ってあるじゃない、高台。あそこへよく若いマリーンの兵隊連れた、4、50がらみの部隊長みたいなのがさ、いろんな戦争の歴史の話をするわけだよ。で、こっちは激戦地だったと。わが軍がクロスファイヤーでやってるときに、日本人はサーベルを抜いて走ってきた。で、みんな「Oh No」って言ってね。で、連中に僕はマリリン・モンローの案内状渡して、そしたら隊長が見てさ「Oh, You Love Marilyn, OK」って言ってさ、「Me too」とか言いながら、「Not Marine」って「You Hate Marine?」って、いらないって返してきた。兵隊はね、冗談通じない。硬い。洋の東西問わず。だから、そういう連中が僕の展覧会見に来てくれたら面白いんだけどね。ねえ、若いマリン兵つれてさ、ざーっとあがってきて。

翁長:そうなればおもしろいですね。

町田:そういう光景見てみたいですね。

真喜志:なんか前に美術館でほら、MAXの部屋にアメリカンスクールの学生がいっぱい入ってて、みんなこんな(目を隠して)して通りおったという話を聞いたことあるけど。ほら、股広げた女が作品の中にあったでしょ。子供たち困った顔したという話聞いたんだけどさ(笑)。あれもそうだよな、照屋勇賢が僕の部屋見て「真喜志さん、これそのまま持っていこう」って言って、最初冗談と思ってたの。そしたらキュレーターの渡辺真也も「そうだねえ」って言って。であの部屋が実現したの。

町田:あのスペース、真喜志さんの感じ出てますよね。

翁長:ぴったりですよね。これは(嘉手納基地をパノラマで描いた作品)ドローイングですか?これはフロッタージュしてるんですか?

真喜志:いやいや、これはただあの画用紙の継ぎ目が目立たないように、KADENAとちょうどスケッチブック7枚。道の駅でこうして計ったんだよ。でさあ、7つで全景入ると。パノラマカメラ持ってないからさ。で、一枚ずつ描いてあとで繋いだの。大体ホリゾントラインだけ大まかに決めといて描き始めるでしょ……。

翁長:真喜志さんの作品を見ると安谷屋さんの作品に共通するよね。何かスピード感とか水平のこのシャープな線とか。

真喜志:で、この辺まで来るとこの風景覚えといて開けてまたこうやって、継ぎ足し継ぎ足しでね。

翁長:好きだけど嫌いというか、両方ある?

真喜志:ちょうどクリスマスの日だよ。12月25日に描いた。

大山:じゃあ最後に、今度ニューヨークで展示するんですけれども、何かメッセージがあれば。

真喜志:まあそうだね、翁長さんがねニューヨークで展覧会やろうよっていうから、なんだろうなと思ってびっくりしたんだけど。ねえ、40年ぶりにニューヨークまで行って見たいなという気持ちもあるけど、先立つものが、路銀がない(笑)。

アーカイヴ

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