OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT

永山信春

永山信春(1939年~)
沖縄県南大東村生まれ。琉球大学美術工芸科を卒業後、中学校教員に赴任。茨城県桜川市在住。学生時代からグループ展などに絵画を出品。当初は表現主義的な画風であったが、前衛グループ耕のメンバーとなる。トタン板に穴を穿ち、当時としては最も前衛的な作品で個展を開催する。その後72年まで前衛活動をした後、休止。80年代から絵画を始め、90年代にはタールが画面を覆い尽くすモノクロ絵画を制作。現在は茨城県で民具や農具などを素材とした作品を制作している。

インタヴュー

収録日:2013年6月6日
収録場所:自宅アトリエ(茨城県桜川市)
聞き手:町田恵美、中島アリサ 撮影:大山健治
書き起こし:町田恵美、中島アリサ

中島:永山さんの生い立ちなど、略歴からは見えてこない部分や育った場所のことなどお伺いしたいと思います。

永山:本当にこの年になって、そういうのは誰にもまだ語ったことがないんだよね。さっきちょっと車の中で話したけど、南大東島で生まれて、親父が鹿児島の出身だったもんですから、その経緯はどういう理由かわからんけど、西南戦争の後に、こちら(南大東)に来たかもわからん。お袋は北部の方だしね。それで僕は南大東に4歳までいて、戦争が激しくなって、親父の兄が羽地の田井等って所にいたもんですから、そこに結局南大東から疎開したっていうような感じで……。

町田:じゃあ、4歳まで。

永山:南大東です。戦争であちらが危ないということだったから。親父と兄貴は南大東島に残って、僕は弟、お袋と羽地に来て、親父の兄貴を頼ってそれからずっと名護、羽地村に住み着いたっていう感じです。

町田:お父様は残って、何かお仕事が南大東島であったのですか。

永山:あの時は大日本製糖、今、大東製糖ってのがあるでしょう、南大東島にね。南大東島っていうのは、まだ100年ぐらいの歴史しか……。

町田:新しい島。

永山:新しいよね。玉置さん(玉置半右衛門)が開拓して。で、戦前は東京都の結局管轄だったのかね。教育もみんな東京、銀行も学校も病院も。はっきりわからんけど、あちらだけで使われていた紙幣もあったという話をよく聞いた。そのぐらい非常に進んでいるところだったけど。こちらに来たら、なんていうかな、田舎だといって(笑)いじめまでじゃないけど、そういう小さい時の思い出があり、今からすると標準語も東京だから進んでいたし、そういう幼少の思い出から、結局、風景に対する思い入れがあるかもしれない。風景というのは、こんな絵を描いて風景画かといったら思想がなんとかっていうけど、それは例えば、モンドリアン、完全抽象のモンドリアンね。僕はその作家好きだった。彼はその前に水彩画を描いてるんだね。もうその後からは風景は絶対見ないようにしたって。食堂でもホテルでも風景が綺麗なところに座らせたら、わざと綺麗なところを後ろにしたぐらいに徹底したらしいけど。僕なんかはまだ揺れ動いてるから、いつも美しい景色にこう、なんで景色を見たらあんなに悲しくなったり、寂しくなったりするかなっていう感じですね。

町田:そういう気持ちの表れが反映されるんですかね。

永山:何も無いほうが、鈍感がいいなぁと思ったりもするね。今でもアウシュビッツの跡が好きだ。資料館行って見るというよりは、なんかその無くなった後の……。これはアウシュビッツのその門にある、これは世界でも僕だけしかないっていう感じで、自分の作品として作ってた。

町田:アウシュビッツ行かれたのは最近ですか、ポーランドは。

永山:ええっと、もう6年なるんじゃないかね。

中島:小さい頃から絵を描くのはお好きだったんですか?

永山:ううん、好きじゃなかったね。好きじゃないというよりは、あまりこの道に行きたいという気持ちはなかったですね。いつも絵描きって、ゴッホの厳しい苦悩の世界に入らないとできないと思っていたから。

町田:例えば、もっと小さい時に、小学校とかそういう時に授業で絵を……。

永山:結局、あのー好きじゃなかったんだけど、この間いろいろ整理したら、中学校で学科賞というのがあるんだよね、僕は覚えていないけど。今、電話来た津波君っていうのは、こちちに来たことがあるんだけど、仲間同士でいろいろ話して、数学賞は誰がもらって、国語は誰がもらってと話しをしたら、「図画は君がもらったんだ」って。僕は「いや、前川君がもらったんじゃないか」っていう話をしたら、そういうの調べていったらその証書がちゃんとあるんだよ。高校の時は覚えている。高校の時は、学科賞というのがあって、それを僕もらったんだけど。

町田:その前から……。

永山:これが高校の時に描いた。この一作が沖縄タイムスの図画作文コンクールに。

大山:高校の時にですか?

町田:凄い。

永山:これが第4回かな。1958年だから。この時に賞をもらって、これ《斜陽》っていう題目だけど、太宰治の斜陽も意味もわからんけど、ただ斜めの光っていうだけのことで斜陽って付けて、それが何か沖縄タイムスのコンクールで最優秀賞もらったっていうことで、ニューヨークの比嘉(良治)さんは先輩ですから、高校の。彼が名護から羽地まで夜、バスもないのに歩いて夜中に報告に来て。そういう関係で結局はもう行く所がなくて美術にしたんですが。できたら他のものに能力があれば……大学3年までも。

町田:高校なんですけど、今、比嘉良治さんのお名前も出てたんですが、高校からもう美術部には行かれたんですね。

永山:美術部に入って、その時には。美術部といっても先生はいないでしょう。先生はもういないから自分達だけで。

町田:体調はあまり芳しくない古波蔵先生。病気がちだったんですよね。

永山:(中島)イソ子さんもあまりお会いしていないですよ、学校では。

町田:それぞれで制作していた感じですね。でもその後、琉大に進まれて、美術学部。

永山:そして琉大。

中島:あの『名護高校美術クラブ4人展』というのが1957年に行われたということで、その時のメンバーはどなただったんですか?

永山:僕よりうまい比嘉義和さんというのがいて、彼は非常に絵が中学校から上手だったんだけど、なんでも出来る人で、体も大きくてスポーツマン。ハンサムで、あの時、鉱石ラジオというのがあって、彼は物理部に行って鉱石ラジオを作っていたもんで、結局一緒に出しはしたけど、僕が最優秀賞もらって、彼は一等か何かもらって、それはそれで彼は東京の専門学校に行って。僕も東京に行きたかったんだけども、貧しかったもんだからもう行くところがなくて(笑)。琉大に行ったんですが。

町田:永山さんと比嘉さんとあと、お2人は?

永山:同級生?同級生はもう2人ぐらいしかいないね。

中島:この美術クラブ4人展は。

永山:あ、それは後輩たち。宮城……。ええっと、那覇にね、小橋川さんってのいうのがいる。

中島:小橋川肇さん。

永山:小橋川肇さん。それから、具志堅君。具志堅誓謹先生の、具志堅勲さんとかね、後輩で。それから、お母さん(中島イソ子)と同級生の前田包子さんとかもみんな……。

中島:はい、仲座包子さん。

永山:仲座包子さんとか羽地に宮城貞温とか、なんとかそういうぐらいしか覚えてない。
 ――それでまあ、ニューヨークに比嘉さんも居たせいがもあるかもわからんけど。あの時分、アンフォルメルの全盛時分だから沖縄からどう脱出したら、これしか考えてなかった。比嘉さんが勧めて、私行けないからって、恥ずかしくて、(留学)試験も受けたら結果も見にも行かない。レベルが違うから(笑)。あの時分には、教員勤めていたんだけど。ま、そんなもんだね。まだしかしあれですよ。うーん、生きる、どう生きていったらいいかっていうものがまだ、あれじゃないかなっていう感じだね。

町田:でも高校生であの画力は結構……。

永山:あまり絵描いてなかったですよ。これはねセザンヌに憧れた。セザンヌのりんごってあるけど、セザンヌは誰でも描けるような風景画であるし静物画だけど、彼の理論があるでしょう。円形、円筒、球体で自然が構成できるという(理論)。

町田:だいぶ削ぎ落された感じ……。

永山:この絵はテントに描いた、キャンバスのない時代だから。

町田:ああ、テント。美術クラブの先生が不在がちで、制作環境というのは、どこでなさってたんだろうって思って、ご自宅で描かれたんですか?

永山:いつ?

町田:高校……。

永山:そう、羽地のほうで。

町田:でもそんなに描いてなかった?でも描く時はすごい集中して描かれたんですかね。

永山:そう。これもだから名護高校に、校長先生が「記念になるから置いときなさい」って。僕は記念も名誉も必要ないからって。そして田舎に転勤もあったし、大学卒業してすぐ田舎に伊是名中学の方に、文教局の奨学資金得てたから2カ年。約束果たすために、それで校長室から名誉も何も必要ないから絵を持って帰って。そうじゃないともう学校ってのはいろいろ変わっていくでしょ、新築したり。みんな殆ど無いですよ。これだけあるから、もう孫の代までっていうことで二つは持ってきた。あれは大学卒業の時の自画像で、自画像描かないと卒業できなかったから。

町田:そうなんですね、琉大も。

永山:うん。結局、10、9名ぐらいいた中で僕しかそれ持ってない。誰も。

中島:大学時代は高良さんと同期ですか?

永山:いいや。大学時代は同期ではあるけど、彼との交際はないね。

町田:琉大時代に安谷屋(正義)先生に……。

永山:そういう影響を受けたかね。

中島:やっぱり影響は大きかったですか。安谷屋先生の。

永山:もう、今でも。だから……、本当苦しいね、こういうのね。誰の一番影響受けたかっていうのは安谷屋正義だね。僕の基本は油、安谷屋正義ですよ。油絵の基本が安谷屋正義であり、アートの影響は(彼以外)沖縄にはいなかった。

町田:安谷屋さんを直接知らないので、やはり他の作家さんや関係があった方々からお話を聞くことで、少しでも私自身も理解したいなという風に。

永山:あのーなんというのかね、こちら来て、14、5年、結局日本の伝統とか、そういうものをよく考えると、公募展というものがあるね。で、そこに偉い先生がいるね。それはもう何十年前から。地方にまたその弟子がいますね。弟子がまた弟子を作ってそれがもう沖縄にいる時からそういうことがあって。私は教授じゃなくて芸術家が君の真の教師だよ、という言葉を鵜呑みしていたから、鵜呑みというよりは、ずーっと心に思っていたから。今もまだどうしたら絵描きになれるかなということで悩んでいますね。
 ――琉大一年の時に(第一回)個展したなあ。琉米文化会館に、結局そういう画集が来て、セザンヌの複製から憧れて、琉大行って。安谷屋先生はデザインの先生、日本美術と工芸概要論の先生だったんだけど、なぜ安谷屋先生にお会いできたかというと、「創斗会」というのがあってね、その研究会に僕は入れてもらって、その中でちょっぴりこう話を聞いたり、あるいは安次嶺(金正)先生との討論、その中でいろいろ、学んでいったかね。絵というのはやはり直接そこにものがあって、その作品があって、それとの対話というか語りがないと、何か今、東京もみんな毎日のように毎年のように 50年、学生時分、東京来たら必ず銀座の画廊も回る。それから上野の美術館。毎年々々繰り返す印象派。もう印象派だらけだ、日本人は印象派好き。好き嫌いは別にしても、絵とは何だろうとか、ほんとにわかるとはどういうものであるのかという……。みんな、言葉、ジャーナリズムに踊らされているのか、それに酔ってるのか、そういうものをこの頃いつも感ずるんだけど。そういう中でもやはり安谷屋正義の絵は全国持って行っても第一級だと。その中でも《滑走路》。この《滑走路》一つで、僕は、あー、安谷屋正義は最高だな。この間、このことを安富(幸子)さんの画集に書きましたから、画集をちょっとみたら……。いつか暇な時に。

中島:はい、じゃあ次回また。

永山:そして影響を受けたっていうのは、その時代々々にみんな受けて変わってくるよね。僕らの時代は激しい。結局はアンフォルメルの作家にみんな惹かれた。フォートリエという画家知ってるかね。アンフォルメルの時代の作家に殆ど……。

町田:先生もそうなんですけど、たぶん安谷屋さんや安次嶺先生とかに……。

永山:玉那覇(正吉)。大学の先生、安次嶺先生。それから、山元(恵一)先生。ま、結局は彫刻は玉那覇先生、それから宮城健盛先生とか、構成(デザイン)は安次富先生。それから陶芸は新垣栄三郎とかいって、その先生でしたね。ただ、みんな優しかった、これだけだ。安谷屋先生からは絵の大きな影響を受けた。後の先生はみんな優しかった。

中島:優しかったというのは。

永山:人間的に。

町田:「創斗会」もそうなんですけど……。

永山:それから、「グループ耕」。それはみなさんもういっぱい資料あるはずだからグループ耕のことに関してはね。

町田:なので、先生だけじゃなくて同じ同年代の仲間、作家からも永山さんが影響というか良い意味で刺激を……。

永山:それは資料に載ってるんじゃない。いろいろみんな、真喜志(勉)君とか、みんな同じような。結局、「グループ耕」を辞めた後に高良(憲義)君、新垣(吉紀)君なんかと「NON」作って、そういうのもみんな刺激しあっているんでしょう。

中島:「現代美術研究会」を結成されて。

永山:そうそう、そういうのみんな。

中島:創斗会を脱会されたのは何か、あの絵画の追求というか。

永山:あのね、創斗会も結局は、「もう美術館は必要ない」とか、「絵は外で描く」とか言いながらも、今いる城間(喜宏)先生とか大嶺(實清)さんとか、そういうよく議論をしたけど、結局はまたそこにひとつのなんていうか権威っていうのかな、箔っていうのかな。だんだんとこれが見えてくる感じがあるんだ仲間の中で。そうするとあー違うなって思って。僕らは何もなかったでしたから、新垣君も後輩だけど。高良君と三名あたりで何か……。金城(暎芳)君というのがいたね。

町田:そうなんですよ、こないだ金城さん体調が悪くてお集まりいただけなくて、ほんとは金城さんを含めて三名にお話を聞く予定で。金城さん今でも名護の方にお住まいのようなので。

永山:名護じゃないでしょ、あれ大宜見だけどねぇ。

町田:なんか遠くの方から来るっていうことで、来れなくて。また別の機会にやりましょうって話しました。

永山:懐かしいね、生きてる間に会えるかな(笑)。

町田:高良さんは元気だと思う。

永山:彼は元気だよ、いつでも。ありすぎる。

町田:話し合いとか、議論を重ねることも……。

永山:そこの質問はそういう意味がちょっとあったから、それから我々同志、4名で新しいことをしようと思って、あの実験的な、モーニングスターの写真を。単調かもわからんけど、絵描きとか芸術家というのが箔とか肩書きとか権威とかそういうものを持つというのは基本的に間違ってるよね。思うんだけど、特にここ日本ていう国は50年経っても変わらない。(茨城は)いわゆる絵画のメッカでしょう。横山大観、岡倉天心といえば毎年々々、県立美術館はこれだけ。権威はやはり必要でしょうね、権威は必要だけど権力みたいなのがだんだんくっついてきて、あとはお金になったり。しかし、あんな沢山の中には凄い才能があるなって感じはやはり、また素直に認めないといけないと、自分の力の無さってのは感じましたね。沖縄から出てきていろいろあったし、苦労もしたけど、俺まだ勉強しに来ているんだという、そういう感じもありますよ。で、一週間に一回、益子、それから笠間。すぐ近くですね。最初は骨董からはいったんだけど、今は何になりたいかって言ったら僕は古道具屋になりたい。古道具、非常に好き。ここに来て時期、自転車なんか捨てられてた。沖縄には自転車あんまり無いのにみんな捨ててある。それを持っていったら、ただパンクしているだけとかチェーン直せば……。大変だなぁと思う。この辺もみんなそうですよ。いっぱいそんなのが捨てられているんですよ。

町田:永山さん、さっき上で見せて頂いた作品にも取っ手だったり、そういうのが反映されてるなと思ったんですが、高良さん達と活動されてる時もベニヤだったりそういう素材を使われてたなと思うんですが、最初は油……。

永山:そりゃ最初、高校のときは油。

町田:大学でやってそれになって、また平面に戻られたように記憶してるんですけど、さっき(アトリエ)上って、あっ、そして半立体、今また立体に近いものをまた制作されてるんだって思って。

永山:厳しいところだね(笑)。だから絵の方と絵のことを語りたいね。

町田:平面のときは平面のときで、それぞれテーマを一貫して持っておられる。さきほど冒頭に風景の話をされてはいたんですけど、決して沖縄だからという感じでもないモチーフを一見したらそう見えない、例えば《黴》とか《ほね影》もそうなんですけど。あ、でも《ほね影》は上で見せてもらったものにちょっと見えた感じもして。

永山:《ほね影》はね、最初に外国に行ったとき、もう何十年前だよ。その時に石の文化かな。それから《ほね影》の前に《幻影の没落》ってタイトルで描いたのがだんだんこうなって。《ほね影》は自分の言葉で作っただけだけど、それからだね。《黴》も何も具体的な黴じゃないのよ。これを使ってる中でこんなのが出てきたもんだから、ほんと黴だなと思って、それから日本文学にも「黴」って。黴はまた読谷かどこかで個展したときに、いろいろその投書の中に……。黴は嫌がられるもんだけど、お酒作ったり、醤油作ったりするから、いいタイトルだなと思って。それからさっきのフォートリエ《人質》っていう作品もあるんだから、黴なんかまだ良い方だなと思って(笑)。そういうことで、タイトルは別に。

町田:タイトル、モチーフは。

永山:あまり……。重要であるかも分からんけど、意味は無いんじゃないかね。具体的なものがあって。

町田:でも、きっとそのときどきに永山さんの感じていることが表れているのだとしたら、意図的にはないにしても感じるところはあるんじゃないですかね。

永山:それは皆さんが感じることよね。だから僕は絵を見て、今何をしてるか、どうしてるか、遊んでるのか、絵空事をやってるのかと。色があって、筆があって描けば、みんな絵描きになるもん。

町田:でもやっぱり技法やスタイルは永山さんの作品は私はすごく気になりますね、テーマというか毎回変わるたびに。私は時代をもちろんタイムリーには追っかけていない、後追いなんですけど。

永山:さっきの農機具の感じはどう?その理解を誰か専門家がどう受けるか。ちょっと見て欲しいなと思う。そういうものにだんだん移っていく感じ。だけど体力がだんだん落ちてくるとね、腰痛もあってね(笑)。これがもうやはりあれだなと、若い時のああいう情熱みたいなものがあれだなと。

町田:さっき永山さん、アメリカへの想いというか。多分、良治さんがおられたこともあると思うんですけど、実際ニューヨークで展示をされてるときが初めてのアメリカになりますか。それ以前からニューヨークは?

永山:それは、あの時分の現代美術がパリからニューヨークに移って激しく動いてる時だったから。作家もまた、みんな憧れたんじゃない。

町田:実際に足を運ばれてニューヨークはどうでした。刺激的でした?

永山:いや、僕はエンパイア・ステート・ビル行って、小便してすぐ帰ってきただけですよ(笑)。これは「アメしょん」って言う。これも安谷屋先生から習った言葉でした。アメリカ行って小便してくることを「アメしょん」って言ってた。それほんと学生時分、一番治安が悪かったから、良治さんもどこにも連れて行かない。地図描いてニューヨーク近代美術館これだからって、一人で地下鉄も乗りきれない。やっと近代美術館とメトロポリタンだけ行って、それからエンパイア・ステート・ビルで小便してさっと帰った。

町田:展示期間はどれくらいだったんですか。

永山:二週間くらいいた。二週間か三週間。

町田:展示自体も?

永山:やりましたよ。沖縄から(キャンバス)巻いて送って。比嘉さんの勧めで。まあ、行くだけでも憧れだったから。

中島:お客さんの反応はどうだったんですかね?

永山:いや、僕もあまり(ギャラリー)行かないから。

町田:ギャラリー自体に居たわけではなくて……。

永山:小さなギャラリー。そんなのも何故わかるの?

町田:略歴を一応、拝見させて頂いて。

永山:大変だねえ。

町田:いやいやいや(笑)。その、お話しの中で海外のことが出たので、海外の作家さんの……。

永山:恥ずかしいね(笑)。恥ずかしいですよ、海外と言わないで下さい。ニューヨークも恥ずかしいですよ。そこに何年かいて、そこで制作していればあれだけど。

町田:そうですか?そこでふだん見ることのない景色を。

永山:もうニューヨークじゃないよ。今だったら若ければポーランド辺り行って絵を描きたいなって思うよ。ポーランド好きだね。何にも無い。帰ってあとからね、コルベ神父とかそういう方。それから有名な夜と霧の本書いてる有名な、精神科医。生きる意味、生きる価値、そういう本を読んだね。こういう言葉。「友のために死ねるか、それ以上の愛はない」という言葉なんかね。友達のために死ねる?

中島:難しい質問ですね。

永山:僕はひとりいたけど。今はちょっと自信ないな(笑)。

町田:その人無しで生きていけるかってことですよね。

永山:コルベ神父が結局身代わりになってあれしてるからね。だから、何もそこ行ってどうのこうのっていうよりは。それで帰ってあとから地震(東日本大震災)もあったし、(あの無力感で)あの頃の作品はつくった。もうそういう作品を残しておけばいいだろうと思う。
 ――しかし懐かしい、金城君。彼は一番冒険的な作品つくりよった、あの時分。

町田:金城さん?

永山:この事を考えると僕らは凄い仕事をしてるなと思いますよ。例えばこれね、新聞で揶揄されていたんだけど、笑ったんじゃなくてね、新聞に書かれてますよ。どんなに馬鹿でも、馬鹿なことやっても、アホなことやれないんじゃ、(芸術家に)なれないよ。これ僕らひとつひとつもう大変だった。それとあと漫湖でね。

町田:浮かして。

永山:うん、それなんかもう、夜大変でしたから。こういうのが結局基本になって作品はやはり年を取って変わっていけばいいんだよ。変わっていく筈だし。

町田:高良さん、昨日のことのように鮮明に覚えてましたよ、漫湖のことも。

永山:結局は消えていくというのかな、運命みたいなもんだろうね。情熱がさっと引いていく。長らく続いたからいいんじゃなくて、長く続けばそこにまたマンネリが出てくるはずだし。組織とかグループてのは燃え尽きて崩壊すれば、それでいいじゃないのかね。

町田:そうですね。痕跡というよりは、そのときにどう過ごしたか、何をしたかが今でもそれぞれにきちんと残っているんであれば、モノではないのかもしれないですね。

永山:写真は彼の家にあったんじゃないかね。

町田:ご本人から提出して貰いました。

永山:寒い冬の日だったよ。凍えてねえ。よくあるねえ。僕はこれ(写真)がないね。

町田:高良さん持ってましたよ、写真。

永山:あー。あれ(高良さん)の家には写真機あったんだよ。

町田:いっぱい撮ってる。

永山:そうだろうね。

町田:カラーであります?

大山:いや、カラーは無いね。

永山:これカラーだったの?カラーじゃないでしょ。

大山:カラーではないと思いますよ。

町田:黄ばんでるだけか(笑)。

永山:凄い写真だな。これを今僕が作りたいよ。これを僕の作品にしたい。

町田:これはどなたですか?これが金城さん?

永山:みんなでつくるんじゃないこれは。沖縄製缶から借りてきた(笑)。世界の日本の作家はこれ自分で圧縮してやるんだけど、あれぐらいのあれがあればすごい作家になりよったけど、沖縄製缶の庭じゃなかったかねこれ。これは与儀公園まで持っていけなかったから。与儀公園でもやりましたけどね。こういうのを見ると皆さんもすごいね。

町田:こういうことを今沖縄の作家でやってる人って……。

永山:少ないね。これはね、沖縄だけじゃない全国的に、ギャラリーも少なくなってるでしょ。ここもそうなんですよね。やはり経済活動と一致するか分からんけど、結局は印象派に流れていく。分かりやすいっていうものにね。という感じだね。だから私は若い皆さんに憧れ、これは、翁長さんが美術館に来た時も憧れた。彼も専門的に勉強しているんでしょう。(当時)沖縄には学芸員も何もないあれだったし。そういう分かる人がいないと分からないですよ。一般の人が分かるはずないですよ。きれいだなとか、分かったってこれがアートになるとか芸術とか、描く本人も分からないもん。自分でも分からないけど、自分で惚れて、自画自賛だ。自画自賛というのも、僕、絵描きがつくってる言葉だと思う。自分の画を自分で讃えるんだから。それがないと絵を描けない。友達と酒飲んで、徹底して口論して、議論して、寂しく別れて、それからまたそれぞれまた頑張って。

町田:難しいですよね、多分この時代にも批評っていうか、そういうコメントをなさる方は多くいたかもしれない、その人がもし右を向けば右ではないですけど、だめだとしたら一般の方にはだめとしか映らなかった。

永山:そりゃそうでしょ。沖縄はマスコミ新聞にしかないから。展評みたいなもの。こちらにきても展評もそれなりに僕も何点かはやったけど。断る自由があるから、僕には適任じゃないからって断ることはできるけどね。そういうのもありますよ。

町田:でも、それだけが全てというか、唯一というのはちょっと……。他に何かあります?

永山:まだある?

中島:これから作品をつくる上でどういう風にしていきたいか、展望みたいなものはありますか?

永山:展望みたいなのは、先ほど言ったああいうものに移っていこうかなと思いますね。まだはっきり分からんけど。

町田:お話し聞く限り、今でもご自身でいろいろ考えを、まだまだ違う作品を見れるかもしれないですね。

永山:これなんか大和村来て時期、雪景色。僕、雪好きだったね。だけど、今あまり大変だなあ、雪(笑)。

大山:この辺はもうかなり……。

永山:茨城のここはね、雪はあまり降らないところ。

町田:ああそうなんですか。

永山:その辺はいいはずね。年間4、5回しか降らないから。

町田:あ、そんなもんなんですね。

永山:ここからあちら、北寄り(東北)、大変だもん。

町田:関東というか、まあ本土は寒さがねえ、やっぱり沖縄とは違うから。今日は、ありがとうございました。

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