OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT

稲嶺成祚

稲嶺成祚(1932年~)
沖縄県那覇市生まれ。琉球大学美術工芸科卒業。初期の頃は意図的に稚拙な線を描くことでも絵画が成り立つ実験を続ける。エジプトやインカなどの象形文字による構成を試行。一時期、創斗会などに入会するが、退会後、独自の道を歩み、造形的な創作を繰り返しつつ現在に至る。沖縄県造形教育連盟会長、大学教授として後進の指導にあたった。

インタヴュー

収録日:2014年7月28日
収録場所:自宅アトリエ(那覇市)
聞き手:町田恵美、中島アリサ 撮影:大山健治
書き起こし:町田恵美、中島アリサ

町田:成祚さん、今日は改めましてよろしくお願いします。この間もお話したんですけど、まずお生まれ、生い立ちからお話聞きたいと思います。

稲嶺:昭和7年12月23日、もう公休日なってるよ。僕が生まれてるから(笑)。兄弟はですね、7名いました。一番上が僕より3つ上かな。この人がちょうど戦争中、第一中学校の3年生で兵隊と一緒に行って亡くなった。亡くなったって言っても、どこで亡くなったか全然わからないんだけど。7名のうち、彼が戦争で亡くなって、一番下の子が終戦直後、疫痢とか赤痢とかいっぱい病気が流行ったんですけどね、それで亡くなった。それで戦後ずっと元気でいたのは5名になります。父は教員をしていました。母と僕の祖母が上之屋の、あの頃「県道」って言ってたんだけど、今の58号線みたいな道のそばで雑貨屋をしていました。私はその上之屋で生まれて小学校6年で戦争が始まるまで、そこで過ごしたわけですね。小学校は安里小学校っていうのがあったんですよ。今の崇元寺の裏の辺りは安里で、そこに学校があって、上之屋から安里小学校まで通うんですが、ちょうど真ん中辺りに泊小学校があるわけ。だから泊小学校の正門の前を通って行く。いじめられないかいつも心配だった。しかし小学校2年に上がる時に安里小学校は今のおもろまち、ちょうど今の県立美術館辺りに移った。県立美術館に向かって左側に「安里小学校跡」碑が建っている。その後は上之屋からは、今のおもろまちのリウボウの前あたりに小高い丘が連なっていたが、そこを突っ切って学校に通ったわけですね。それから小学校6年の時に、もう昭和19年ですけど、戦争が厳しくなって、学童疎開することになります。昭和19年の8月に(疎開の)船が出てますから、1学期まで授業してちょうど夏休みの時には、日本の兵隊が来て学校がみんな兵隊の宿舎になってます。だからその年の夏休みの後からは、学校での授業はなかったはずです。
 当時の生活の話を少しするとね、上之屋っていう部落は泊の上側で、泊から見て「上の家」という意味だろうと思います。そこは那覇市の場末みたいな感じで、那覇市の町並みがずーっと泊まできて、上之屋で終わる。上之屋過ぎたらもう県道の左右には家が無くなって、少し距離をおいて天久になるわけです。今のおもろまち(新都心)は畑とか原野でしかなかったですね。そんな感じで、上之屋まではどちらかというとやや賑やかというか、町の雰囲気があっていろんな店がありました。床屋もあるし、鍛冶屋もあるし、雑貨屋もそば屋もあるし、とにかく大体なんでも揃っていたんですね。ところが同じ安里学校の学区ですが、天久も銘苅も安謝もみんな農村なんですよ。みんな農家ばかりですから、ちょっとした買い物には那覇に出て行かないといけない。あるいは各字にあるちょっと大きめの雑貨屋で買ったりしていました。
 小学校1年に入るとき、僕はランドセルを、あの頃は「背のう」といっていたが、そのランドセルを買ってもらって、靴も買ってもらって学校に通った。今では当たり前のことですが、あの頃はランドセルではなく、風呂敷に本を包んで背中や腰に結び付け、裸足で学校に行く子が大多数でした。学校が今の新都心になった地域に移って、私が2年生、3年生になった頃には、私も風呂敷で本を包み、裸足で学校に行っていました。戦争などの影響で次第に物が乏しくなってきたということもあるし、みんなが風呂敷で裸足だから、僕もということもあった。
 4,5年生になった頃から、食糧もだんだん厳しくなって、みんな弁当には芋を持って来るわけ。米の飯じゃなくて。まあ田舎の人はもともと芋を二つぐらいとか、たったこれだけだったけれども。でも戦後初めて聞いたけど、中には芋さえ持って来れない人もいた。昼食時間になると、先生と一緒に弁当を食べるのだけど、弁当を持っていない子は、そっと教室を抜け出し、外でその時間を過ごしていた。欠食児童っていう言い方してたけどね。
 最近になって、僕の友人から「僕は実は欠食児童だった」と打ち明けられてびっくりした。彼が言うには「君のお父さんは(当時安里小学校の教員)厳しい先生とみんなから怖がられていたが、時々弁当持って来れない子を集めて、宿直部屋で食事させてくれたんだよ」。弁当を持って来れない子もいるとは聞いたけど、彼がそうだとは知らなかった。そのぐらい社会全体が貧しかったということですね。
 それから小学校6年で学童疎開に行って、対馬丸と同じ船団だったんですけどね。僕らの船団は商船が三隻で縦に並び、それを駆逐艦二隻で左右を挟んだ形で進むのですが、僕らの船が一番前で、二番目の船(対馬丸)が魚雷にやられているわけ。
 命からがら逃げて、やっと長崎に着いて、熊本の日奈久という町に行った。多分900名ぐらい沖縄の子が疎開していたと思う。だから、その町の旅館はほとんど沖縄の子が占めてる感じだったんです。日奈久の小学校で勉強するんだけど、子供が大勢だからさ、一緒には出来ない。日奈久の子供たちが今週は午前中授業、午後からは沖縄の子供たちが授業、4時間ずつ。また来週は交替で、沖縄の子が午前中、日奈久は午後って感じで授業してる。
 その時は食糧難で、とにかく日奈久といったら、飢え死にしそうな記憶しかない。みかんの皮が捨ててあったのを拾って食べたとかさ、そんな話がいろいろあるよ。もうみんなガリガリにやせた。それにあの頃の沖縄の小学生というのは年中半ズボンしか履かない。中学生になって初めて長ズボンを履くわけ。だから熊本の冬の季節もみんな半ズボンで学校に通ってるわけよ。学校単位で引率をする先生がいて、それから子供たちの世話をする女性の方でね、家政婦さんみたいな人が大体一人とか二人とかついてる。この人たちが、他の布を切ってきて半ズボンにつないで長くしてくれたよ。もちろん靴なんかみんな破いてしまってないから、藁の草履をはいて学校に通う。霜が降りたり雪が積もったりで大変に寒くて厳しい冬でしたので、霜焼けで足がパンパンに腫れる人もいたよ。
 8月に日奈久に着いて、翌年の6月にみんな再疎開といって田舎に散って行ったんですよ。この日奈久という町の裏の山を越した所に百済来村というのがあるけど、そこに安里小学校と伊波小学校の生徒が入ったわけ。その村では農家に呼びかけて一人ずつ子供を養うことになっていた。みんな日奈久から歩いて来て百済来村の役所に集められて、そこでくじ引きをして「はい、何々さん」「はい、この子です」とか言って、一人ずつ農家に割り振りした。政府から出る生徒の生活費を農家の人にあげたと思うんだけど、その百済来村だけは農家に疎開児童をあずけているわけ。だから、それからは全然ひもじい思いはしていない。腹いっぱいで急に太りだしてって感じ。日奈久で一緒だった疎開児童は、帰りはまた同じ列車に乗って佐世保に行き、そこから沖縄に帰ったんだけど、農家に入れられたところは安里小と伊波小だけで、他の学校の生徒は、お寺で共同生活したとか、公民館で共同生活したとかね、ずっと集団生活をしてた。だから僕は百済来村の農家に世話になって、沖縄に帰ったあとも5,6回訪ねています。今は、あの時は生まれていなかった子供の時代、もう孫の時代になっていますけどね。

 昔はね、6年生までが義務教育で、それで6年生で卒業して仕事に行く子供もいるわけね。もう少し勉強したいっていう人は高等科1年、高等科2年まで勉強できる。もちろん6年生から中学校に受験できる。それから高等科2年から師範学校に受験できる。僕の場合は高等科2年の途中まで百済来の東小学校にいて、その年の11月ごろだったかね、沖縄に帰ってきた。
 昭和18年の暮れかな、親父は安里小学校の教員してたのだが、久米島の比屋定小学校の校長として転勤になり、家族10名いたのがね、半分ずつに別れた。兄貴と僕と僕の下に妹がいて、この3名と祖父と祖母の5名がこの上之屋に残り、下の3名の弟と妹が父母と久米島に行った。そして僕と妹は学童疎開で行って、兄貴は一中生として軍に協力、だから昭和19年の暮れあたりから祖父と祖母だけになってたけど、十・十空襲で家が焼かれた。その後祖父母は天久の知人の家を借りて住んだ。そこで祖母は病気で亡くなって、祖父は、僕の父の弟が名護にいたからそこに行って、国頭で戦争を過ごしている。戦争終わってから祖父は、僕の父が久米島にいるから、久米島に行き、僕も妹も学童疎開から帰って、久米島の父のところ行って、やっと家族全員がそろったわけです。
 沖縄の戦後はね、学校の制度が変わっていて、高等科2年は初等学校8年生になった。初等学校8年生は高等科2年と年数は同じになるわけだ。初等学校の上には高等学校(4年間)があり、あの頃はシニアハイスクールといってたけど、受験して入学する。受験できるのは7年生と8年生両学年からできた。僕は8年生から入ってるけど、7年生から受験した生徒もいたので、一つ年下の同級生もかなりいるわけですね。
 久米島の高等学校は、あの頃は糸満高校の分校で糸満高校久米島分校となっていた。1年生と2年生までが久米島高校に通い、3年生と4年生からは糸満の本校に行く。久米島分校は比屋定からみて、島のほぼ反対側にある。高校までおよそ2時間余り歩いて毎日通ってたよ。6時ごろ家を出て8時半の授業に間に合わす、毎日が大変だった。しかし、5月になって親父が急にあの頃の小禄村の高良小学校の校長に転勤になって、家族みんな小禄に引っ越したわけね。それで僕も糸満高校に転校したので、毎日2時間あまりの徒歩での通学は1ヶ月ほどで終わったんです  だけど、小禄から糸満高校までも歩いて2時間余りかかる。しかし、ここでは米軍のトラック通学でした。今の58号線の延長とそれからジャスコから来た道とぶつかる所。戦後は、あそこあたりにⅯPハウスって小さい家が道のそばにあって、MPがいつも一人か二人いるわけさ。で、車が来ると必ずそこで止まって、なんか書類見せたりして「はいOK行っていいよ」ってね。行きも帰りもこうやってみんなチェックされるわけ。そうすると那覇からは軍のトラックが朝方、糸満に軍作業者乗せに行くわけ。糸満のロータリーで止まって、そこら辺に那覇の軍に働いている作業員がいっぱい待ってるから、彼らを乗せて那覇に行くわけさ。糸満に行くときは車は空いてるからMPハウスで待ってて、「Take me to Itoman」って頼んでトラックに乗せてもらって、学校にいく。で、帰りは、5時過ぎになって作業員乗せて糸満に来たトラックが、作業員を降ろして空車になったところで、「Take me to Oroku」といって車をひろい、MPハウスで降りて家に帰る。糸満からⅯPハウスまでは信号も何もないから、もうずーっと走るわけですよ。で、豊見城の人なんか、途中で「Stop, Stop」とか言ってから、止めてもらって降りるわけさ。

 久米島高校は校舎がかやぶき屋根だったんですよ。当時はそれはとても良い方で、糸満高校は棒を2本立てて支えているテントでした。だからテントの裾みたいなところまで下ろすと真っ暗になるから、そこは上にあげて、光を入れる。机、腰掛もないから、そうめん箱みたいなものを各自で持って来てそれに座る。もちろんノートも本もない。絵を描くときに使う画版みたいなのを首から下げて、その上に軍のちり捨て場から拾ってきた紙をとじてつくったノートなどを置いて勉強する。その画板は机の代わりです。それから雨が降るとテントの端っこに水が溜まったりする。それを誰かがナイフでパッと切り付けると、水がパーンと出たりして(笑)。とにかく雨が降ったら、水がテントの中に流れ込んできたりするような状態でした。  1年生のときの10月に那覇高校ができて、首里高校区域の真和志村出身の高校生、糸満高校区域の小録出身の高校生は那覇高校に通うことになった。校舎は元の天妃小学校のコンクリート建て校舎だから雨の漏るようなことは無いけど、戦争で窓ガラスは吹っ飛んで無いわけさ。ガラスは無いからテントを窓に張ってるわけね。もちろん電燈もないよ。だから雨が打ち込んだりして窓を閉めたりすると、かなり暗くなるわけ。そんな感じの学校でした。最初の頃は机もないから、米軍の二つ折りにできる骨組みだけの寝台の上に座って、画板を首から下げて授業を受けた記憶がある。教科書もノートもないから勝手に米軍のチリ捨て場に行って、適当に裏の白い紙を見つけてきてそれを束ねてノートを作った。

町田:高校の時の話をもう少し、お聞きしたいなと。

稲嶺:僕は久米島高校にはね多分一番で入ったはず。それで級長させられて、それがプレッシャーであるわけさ、勉強しないといかんしね。だけど糸満高校に転校してからは誰も僕を知らないから、懸命に勉強することもないし、とっても気楽で、こんないい所ないっていう感じだった。それから那覇高校に移って、しばらくして親父が安里小学校の校長になって、上之屋(今のおもろまち)に引っ越した。父は「高良にきて1年にもならず、仕事らしいことは何もしていない」といって反対したらしいが、当時安里小学校はいろいろとトラブルがあって、「地元出身のお前でなければ勤まらない」と説得されて安里小学校に転勤したらしい。
 那覇高校が開校した時には、各学年二クラスずつあった。学年が4年まであって、一クラス40名として、学校全体で約300名の在籍。それがしばらくしたら、毎年何十名って転校生が来る。那覇から山原に戦争で逃げていた人たちが那覇に戻ってくるわけ。卒業するころは同級生が300名余になっていた。あの頃は旧那覇市街は米軍の施設があって家は建てられない。今の崇元寺あたりから天妃まで何にも無くてみんな更地になって、焼け残りのいろんなものが見えるだけでした。

町田:そんな状況でも、那覇高校時代に美術部に所属されていた。

稲嶺:僕らの学年は1年生を2回やっていて、最初の1年生を旧1年、2回目の1年生を新1年とよんでいますが、那覇高校ができて翌年、新1年生のときから島田寛平先生がいらして、美術の授業が活気づいたように記憶しています。
 その頃、ブラスバンド部っていうのがあって、友利という非常に素晴らしい音楽の先生がいて。20名ぐらいかねえ、ブラスバンドを作って演奏してる。僕など音符なんて見たこともないような時代だから、凄いなあ、こんなことできるんだってとっても驚いたよ。で、あの頃たぶん沖縄で唯一といっていいブラスバンドだったんじゃないかな。だから高等学校の運動会があったり、今でいう文化祭みたいなものがあったりするとブラスバンドが活躍する。ところが僕らはいい加減に、ぶらぶら学校に通っているだけで何もしてないっていう感じ。そんな時に、美術クラブができたから、美術が好きとか絵が上手ということでもないよ、行くところがないから入ったわけ。あの頃、美術部で何するかというと鉛筆画しか描けない。絵の具も何もないよ。普通の鉛筆で、米軍のチリ捨て場行って、ちょっと硬めの紙見つけてきて描くだけさ。
 寛平先生が戦前は「樹緑会」といって、二中には非常に優秀な美術クラブがあった。生徒たちが自主的に写生に行ったり、展覧会を開いたりで、有名というかとってもいい仕事してた。それで君たちも先輩にならってやりなさいということになった。じゃあ名前をつけようということで、最初は「美緑会(びろくかい)」って名前付けた。そしたら寛平先生は、これは禄高の少ない「微禄」の感じがして貧乏くさい。「新緑会」はどうかということになった。当時「新緑」という那覇高校の学校新聞があったので、私は気になったが、そのように決まった。樹緑会の「緑」をとって、戦後新しくできたという意味で「新緑会」というのができた。僕が3年生の時に、会長になったんだけど別に絵が上手でもなんでもない。ただ数多く描いてはいた。在校時代に一回だけテントの教室で展覧会したことがあった。これが第一回展だったかな。額縁がないから開南に額縁屋さんがあって、寛平先生が懇意にしてるから、「あんた、額縁貸してくれ」といって、賞状縁の額縁をたくさん借りて来て絵をはめ、展示した。
 しばらくして平和通りの市場で水彩絵の具が売られるようになってね。「ドラゴン」っていう絵の具だった。これはチューブも小さいんだけどね、12色入りで、B円の90円ぐらいしたよ。僕の親父の給料が多分400円ぐらいだったんじゃないかと思うけど、それに比べたら凄い高いわけさ。それ1個をなんとか説得して買ってもらった。だからパレットにね、もう大豆よりも小さいぐらいの絵具出してさ。もったいなくて、水で薄く溶いて描いた。で、このドラゴンがね、後の「ぺんてる」らしいね。
 那覇高校の美術クラブと新緑会とどう違うかっていうと、美術クラブは高校の中での美術の好きな人たちのグループで絵の勉強する場で、卒業したら、もう終わりですが、新緑会は卒業生も含めて会員になるわけ。だから年1回の展覧会には卒業生も一緒に出す。で、展覧会の前なんか卒業生が美術クラブに来てちょっと指導するとか、なんか意見言ったり絵見てあげたりとかやるわけね。まあそんな風にただの部活とは違ってもっと拡大されて、結構長くは続いたよ。沖展や県展で活躍した新緑会出身も結構いるよ。

大山:当時はどういう絵を描いてたんですか?

稲嶺:あの頃は写生さ。見える通りに描くのが精一杯だね。僕はね、3年生ぐらいになってから気が付いたんだけど、山入端っていういつも一緒に絵を描きに行く友達がいた。彼はね、家を描いたり木を描いたりするわけ。僕は山の上に上がって見下ろすような絵を描くわけさ。大嶺政寛さんみたいな絵。僕は絵の中で、1キロも2キロも先にものがあるように描ける、ということが感動であるわけね。モノの表現じゃなくて。で、これはあとで気が付いて、論文にも書いたけど、モノを主に描く人を「モノ派」、空間を主に描く人を「空間派」っていうふうに分けることが出来るのではないかと思った。
 これはずーっとあとの話だけど、安谷屋正義さんがピカソが彫刻をやりだしたということに対して「なんで絵描きが彫刻をやるのか不思議でならん。自分には考えられない」って。ただ自分の芸術的な世界を彫刻に置き換えればいいんであって、何が不思議かと僕は思ってたわけ。ところがあとで考えたらね、安谷屋さんは「空間派」なんだよ。空間は彫刻には向かんわけ。空間は彫刻にできないのよ。ところが「モノ派」の人は、例えば玉那覇正吉さんは彫刻やるでしょ。あの人はみんなモノしか描かんわけね。厨子甕だったり、人物だったり画面の中に大きく入るわけさ。大嶺政寛さんみたいにずーっと家があって、ずーっと水平線の近くまでつながっているような空間の絵は玉那覇さんは描かない。あとでその違いがわかって、あー安谷屋さんは空間派だから彫刻をする絵描きの人の気がしれないって言ったんだと思ったけどね。
 高校生の頃、いっぱい絵を持って寛平先生に見せに行ったら、「稲嶺君、これまだ絵じゃないよ」って言われた。この意味がね、大人になってからわかった。要するにこれから面白くなるのに、なんでここで絵を描くのを止めるかって感じを、寛平先生は「これはまだ絵じゃないよ」と言ってるわけよ。でも、こっちは意味わからん。なんで絵描いてるのに、絵じゃないといわれるのかわからない。今の僕からみれば先生の言われていることがよくわかる。色を全面に塗ってしまっただけで終わっている。細かく描きこんで、これからが面白い絵になるのに、ということを先生は「まだこれ絵じゃないよ」って言われているのだ。このように結構批評は厳しかったけど。「稲嶺君、君の絵には詩情がある」という言葉だけは記憶にある。後に私が絵描きになろうかと思ったときに、この言葉が背中を押してくれたような気はするね。

 それから、高校3年の頃から僕は勉強嫌いになってたから、「絵描きになりたい」と親父に言ったわけ。琉大は1950年にできて僕らが高校卒業する一年前に美術工芸ができてるわけよ。で、画家になるのにまた大学行って勉強する必要ない、一生懸命絵を練習して上手なればいいんだからと思っていたけど、親父は絵描きになっても食えないから大学に入って教員免許を取れと。これが条件だって言って、結局僕は大学に入ったわけね。で、大学に入ったけど、大学には何もない。立方体の箱一個だけ。毎日これだけ描かせるわけさ。1学期のね、もう終わりごろ、7月ごろだったかな。ギリシャ彫刻のカッパヴィーナス(石膏像)が来た。少し虫喰いみたいな傷があったが、もうみんな感動さ。初めて石膏像を見る子もいるわけよ。すぐこれを描き始めた。描き方もわからないで、とにかく輪郭を一生懸命ヨーゲーヒーゲー描いて「はい、できたー」って先生に見せて。木炭もあの頃は学校から配られてたね。まだ店で売られていなかったし、こうして描く木炭があるということも初めて知った。だから僕らより5,6年あとまでね、琉大美術科の試験には木炭持参とか、消すための食パン持参とか書いてあるのを見て、田舎から来る子は燃やす木炭持って来たり、あんパンを持ってきたりとかあるわけさ。そのくらい知識もなく、物もない時代だった。
 石膏像が来て後は、みんな頑張って描いたけど、先生方はデッサンを見て「これはデッサンになってない。だめ」って消していくわけさ。消すだけ。教えてくれないよ。どうすればいいのかわからん。先生方が描いて見せればいいのに絶対描かない。そのうちにだんだん陰影がわかってはくるけど。今考えたら、先生方はみんな東京美術学校卒である。東京美術学校っていうと今の東京芸術大学。滅多に入試一回では入れない。二浪、三浪するのが当たり前ぐらい難しいわけ。だからその前に川端美術学校とか、受験学校で石膏デッサンを一生懸命やって、やっと入るわけね。でやっと美術学校に入ったら、そこの先生方は一流の絵描きたちが教えに来るわけ。でも、いつも教えてるわけじゃなくて、たまに来たら消したりして帰る。生徒は生徒でみんな、日本全国から優秀な人が来てるから絵が描けるわけよ。あの教え方をこの先生方がやるから僕らにはさっぱりわからんわけ。今考えたら、あれは石膏デッサンをいっぱいやった優秀な人向けの指導の仕方だったんだなあって気がする。ヘルメスだったか頭髪が付いてるのがある。こう、丸くね。1年の時に大城晧也先生が担当だったけど、石膏デッサンを描き終わって、全部壁に貼って先生が批評する。僕は丹念に丹念にしっかり見て描いたけど「稲嶺君ね、この髪の毛の数が合えばいいってもんじゃないよ」って言われて、みんながわーっと笑って。要するに一つ一つのものをきれいに描いてるだけで、全体の調子は見ていないんだね。
 僕らの時代の大学っていうのは、物がなくて先生方も教えようがないという時代だった。例えば、西洋美術史とか日本美術史とか先生が古い教科書一冊持って一生懸命教える訳さ、そして黒板に書いたりするけど、実物はもちろんのこと写真もないわけ。今だったらスライドやったり、いろいろあるのに。僕が琉大に勤めるようになってから、僕は自分でいっぱいスライド撮って、絵を見せたりしたけど。要するに授業がそんなふうに教科書もない、参考資料もない、一方的に先生がいろいろ話をするっていうことで、学生は自分で想像することしか出来ない。
 実技もずっと石膏デッサンだけで、四年生なってから人体デッサンをやった。モデルは男子学生の場合は裸だったが、女性の場合はシミーズ着けていた。僕は、大学二年生のとき親父に頼んで一年間だけヤマトに行かさんね、って頼んだ訳さ。とにかくこっちで勉強して、自分がどんな勉強してるのか、何が足りないのか、どんなのをもっと勉強せんといかんのか一切分からん。画集がある訳ではないし、向こうの美術雑誌が来る訳じゃない。僕ら学生の頃はよく先生方の家に行ったんです。玉那覇さんの家とか、安谷屋さんとか山元さんとか。結局はね、その先生方の話だけでしか内地の事情分からん訳さ。今のように雑誌が来たり、本が来たりする訳じゃない。本屋さんが無い時代だった。それで一年間、大学を休学して東京に行きたいと言ったら、親父は「駄目、卒業してから行きなさい」。だから、卒業してから一年間、僕は東京で、親父が生活費送ってくれて、遊学。美術館まわったり研究所に行ったりして勉強したんだけど。親父は「一年間生活費を送ります。一年過ぎたら送らないから、もし東京に残りたかったら自分で仕事見つけて稼ぎなさい」と。だから、もう一分一秒も無駄にすまいと一年間頑張ったよ。展覧会や個展まわりは毎週するし、新宿美術研究所ってこれもう無くなったけど、そこでヌードのデッサンをする。最初に行ったとき、ぱっとカーテン開けて入ったら、目のすぐ前にヌードモデルが立っていてびっくりしたよ。で、同じポーズで一週間やり、次の週には違うモデルさんが来て違うポーズ。誰も教えない。みんな勝手に描きたい人が来る訳さ。画学生が来て、石膏デッサン習うとか、人体デッサン習うとかじゃなくて。だから、ヌードを見ながら、四角とか丸とか描く人もいる。こんなだったら家で描いた方が金もかからないのにと思って見てた。なかには比較的有名な団体展の会員がきたり、そうかと思うと絵をあんまり描いたことがない人も来るし、めちゃくちゃだ。晩はクロッキーでね、5分くらい描いてどんどんポーズが変わるような勉強の仕方をやった。

 東京に行ってしばらくして、ブリヂストン美術館っていうのが東京駅八重洲口から、ずっとまっすぐ行くとある。そこでね、リューベンスの「男の肖像」とかそんなタイトルで、8号くらいかな、そのくらいの絵がある。これを見たときはショック受けたね。生きた人間がそこにいるみたいに描かれている訳ね。こう艶やかでね、もうこんなに本物そっくりに描くんかって思ってね。それを見て、琉大の美術工芸科で学んだ立体的に物を表現する写実のやり方っていうのは、これはもう西洋には勝てないっていう実感があって、その頃からじゃあどうするの?日本の伝統って言うのはどちらかというと平面さね、平面で勝負しないと、頑張っても勝てないな、ていう感じがあって、その頃から平面に興味を持ちだした。
 あの当時、アンデパンダンってのが二つあるんですよ。あの頃は、アンデパンダン展が一番盛んな時期で、当時のいわゆる花形たち、荒川修作とか靉嘔(あいおう)とか、河原温とか。あの連中が皆その「読売アンデパンダン展」で活躍していた。もうひとつは日本共産党が主催する「日本アンデパンダン展」っていうのがあって、この新宿美術研究所はどちらかっていうと左翼系で、僕もその「日本アンデパンダン展」に出した。そのときの絵が浮世絵みたいに細い線で平たく描いた肖像画みたいなもので、6号か8号くらいの小さい絵だった。まあ絵は上等とは思わないけど、あれがある意味で平面へ転換した第一作目だったんじゃないかな。
 東京で小さな作品をずいぶん描いたが、それらの絵は、沖縄に帰って来て天井裏に入れて置いたが、引っ越すときに取り出すのを忘れ、その家も取り壊されてしまったので、すべて失ってしまった。学生の頃の自画像が二点あるけど、これは母方の祖母の家に預けてあったので、幸いに残っています。
 その後エジプトの壁画のよう平面に興味があって、エジプト風な絵を描いたりしたんですね。僕の第一回の個展(1957年)のときはエジプト風な絵が多かったと思う。そして、第二回が1959年かな、そのときに抽象画も描きだしていて展示している。ところが抽象絵画っていうのは絵画の持ついろんな要素をどんどん捨てる訳ですね。芸術の純化だといって、絵画は絵画であればいいいんで文学性やら何やらは一切合財捨てなさい。だから絵画の持つ、例えば事件性だったり、これはキリスト教のこういうストーリーを描いてあるんですよといったことが絵にはいっぱいあるけど、こうした背後のことは抜きにして、その絵のみを見て、良いか悪いかがが勝負だという。そのうち、モノの意味があることも絵画には必要ない、純粋な色と形だけで絵画は十分だということで具象性を失い、完全な抽象になっていく。
 ところがそこまで行って具象を無くすということを、僕は損するような気がした訳ね、これ人間ですよ、これ家ですよ、こういうことが分かるっていうのは僕は武器になると思った。ここまで捨てることはないんじゃないかと思った。最も簡潔な形での具象性といったら子供の落書きみたいなものですね。人間って分かる。或いはこれは犬だよって分かるように描く。そういう稚拙な形そのものに興味を持つようになり、それで僕はそれらを絵の中に入れ始めた。それから幼児の形の意味がわかる能力、形が描ける能力というのも凄いと思った訳ね。例えばお母さんが菊の花をみせて「これ花だよ」って教えるとする。次に子供にバラの花を見せて、「これも花だよ」と教える。百合の花みせて、これ何?といったら、これは「花」って子供は分かると思う。形も色も違うけど、花っていう共通する概念が掴める。凄い能力ですね。言葉が概念ですから、言葉が分かるということと、形の概念が分かるということは対になって発達すると思うけど、これは凄いことだと思った。そうしたことで稚拙な落書きみたいなのを取り入れて絵に描こうとしたのが結構長く続くことになります。

 そのエジプト風の絵を描いて沖展に応募して落選して、それでがっかりして僕の絵は他の人には分からんって何年間か出さなかった。また落書き風な絵を描いて、また落ちるかもしらんって思ったけど、その辺から入選し始めた。琉大の先生方がある程度認めてくれた感じもあった。後にそんな画風で沖展の奨励賞をもらった。そのことについては僕自身もびっくりした。こんなヤナガチして、奨励賞もらうかって。あの頃は奨励賞1回で準会員になれた。今は、沖展賞と奨励賞か、奨励賞2回以上もらわないと準会員にあがれない。厳しいですよ。

 少し後に戻って、絵描きを志したときの気持ちみたいなものをちょっと喋りたい。新緑会に入って後、琉大の美工科に受験するかどうかっていうときの問題ね、ふたつ疑問があった。自分に才能があるかどうか。これは調べようがない。あるかないかやってみるしかないっていうか、これはそんなふうに乗りきった。自分は他の友達より全然器用じゃないっていうのははっきりしてたね、字も下手だし、何か描かしても筆さばきっていうのがみんなは器用だが、それいz僕はとっても不器用。そのあたりに心配もあった訳。自分は向いてないかもしらん。ただ、いろんな現代絵画みてるとそういう器用さではない感じがするから、まぁやってみるかってのが一つ。もう一つはね、この話すると笑われたりするんだけど、僕が卒業したのは1951年だけど、まだ戦争が終わって、5年か6年でしょ。食べる物も十分にない、着る物ももちろん十分にない。住む家もテントヤーとか、あるいはトウタンヤーとか。要するに社会的に衣食住が全然十分でない時代に、絵描きになるっていうことに意味があるのかという疑問があった。先生方からも沖縄の復興は君たちが頑張るんだよ、よくまぁそんな説教聞かされる。つまり、我々が沖縄の人たちの衣食住をちゃんとしてあげる。少なくともそういうのに関わる、食糧増産に関わるとかね。そういうところで働くなら意味があるのに、絵描きとしての存在意義そのものがない時代に絵描きになってよいのか、そういう疑問があった。。これもね、僕は、沖縄の県民60万とか70万ぐらいいるからね、僕一人というか、仲間4,5人くらい絵を描いて、衣食住に関わらないことをやっても、そのくらいなら誰も知らんふりして気にならないんじゃないかって(笑)。沖縄の経済にマイナスにならないよ。ウッピグァーなのに、と思って美術の方へ進んだ訳です。
 もう一つ積極的な理由。アメリカーが軍政を敷いて、それ以上は偉くはなれん訳さ。例えば、県知事になることもできないし、自治権もない。或いは大きい会社が沖縄にある訳でもない。行くのは皆、軍作業なんですね。各人に将来性がない。もちろん沖縄を抜け出て東京の大学に行くこともできるよ。パスポート貰って。ところがそれは経済力がないと行けない。僕の親父の給料じゃ、あの頃だったら、教員の給料っていうのは、ラッキーストライクの2~3箱分(1箱にたばこ10個か12個くらい入っていた)の給料しか貰わないのだから、子供を琉大に行かすのが精一杯って感じだった。だから沖縄で暮らす以外ない訳ですよ。親父は校長してるときも給料が少ないから下駄つくって売ったり、黒飴ぐぁって分かる?砂糖炊いて、指先くらいの黒飴ぐぁ作って売ったり。僕の母は人形をつくって売ったり、結構アルバイトしてる訳さ。あの頃は、靴はアメリカ製の靴、軍靴(ぐんか)はあったが、サイズが大きくて足に合わないから、みんな下駄をはいていた。高校生も下駄をはいて学校に行く、大学生も下駄をはいて学校に行く訳よ。今じゃ考えられないけど。トゥバイフォーっていう2インチ×4インチの角材を切って下駄を作り、それを売る訳。親父は結構それで大工してた。守礼の門からまっすぐ坂を上がって城に入る道(今は小さい道になってる)は、いわゆる琉大に行く大きな道ですが、ここを下駄割坂って言ってた。石ごろごろ道で、みんな下駄はいてくるから、先生も生徒も。そんな時代だった。だから、生活的にはみんな苦しいから当然高等学校出たら、生活が楽になるような仕事をしなさいっていう。しかし、頑張って努力して偉くなろうと思っても上にはアメリカーがいるから、それ以上は上がれない。当時のエリートは何かって言ったら、ドライバー、通訳、或いはタイピスト。庶民の憧れの仕事なんだよ。僕が中学校の教員しているときだったが、校長先生が朝礼のときに、みんな一生懸命勉強してドライバーや通訳になりなさいって言う話をしてた。戦後20年近くなるというのに、いくら現実的とはいえ、この校長先生ずいぶんレベルが低いなと僕は思った。とにかく戦後っていうのは、上に軍政府がかぶさっているから、それ以下の人生の目標しかもてない。ところが絵描きになっていい絵を描けば、軍政下のウチナーンチュであろうとなかろうと、アメリカーも認めざるを得ないのではないかと考えた。それが絵描きになりたいっていうもう一つの動機みたいなものだった。
 これは最近の話だが、原田マハさんの小説の『太陽の棘』っていうのは、まさしく玉那覇さんたちが一生懸命やってることに対して、アメリカーの軍医は感激して付き合ってることをベースにしているが、これは芸術が、ある意味で軍政を突き破ったことを示しているのではないか。

 ちょっと話が戻るが、先程の話、東京に行って、ブリヂストンでリューベンスの絵見て、平面やらんといけないって感じがあって帰ってきた。本当は向こうに残りたかった。僕は沖縄に帰るっていうのは絵描きの道が閉ざされるっていう感じがして非常に嫌だった。ところがね、あの頃、就職難なんですよ。1955年か、56年だね。55年に卒業して、その年東京にいましたから。東京で教員の口ないかなぁっと思って12月か1月頃になってから友達訊いたら、「君、東京は採用試験があって10月頃終わるんだよ」って言われた。採用試験なんて聞いたこともない。東京には教員になりたい人が地方からいっぱい来る訳よ。米軍基地のある立川に職業の紹介所があるから行ってごらんって言われて行ってみたら、「あなた英語できますか、タイプ打てますか」他には仕事ない。あとは土を掘る土木しかない。絵描きの自分の仲間をみていると、自分は絵描きになるんだといって田舎から出てきて、高邁な精神というか希望を持って頑張ってるが、生活で苦しくなる、仕方ないから土木の仕事をする。そうしたら疲れるし、時間もなくなるから、彼らは絵を描かなくなる。食うだけで精一杯ということ。こっちいても食べるだけの生活、食べるだけの金と時間しかないなら帰ろうと思った。それで中学校の教員になった。教員しながら絵を描こうと思って。しかし、あの頃ね、教員は午後6時頃になっても帰れんくらい忙しかったし、仕事が無くても教頭先生が頑張ってたら帰りにくい訳さ。「5時になったから帰ります」とドクターXみたいにはいかない。それで夕食を食べて9時からはなんとか絵を描こうって頑張ったんですね。眠くて描けなかった、くたびれたから明日やろうってのはよくあったけど。結局僕は9時から自分の時間として絵描くように努めたのが今につながってるんじゃないかな。同期生で皆、絵描かなくなる、くたびれてさ。教員しながらでは難儀だから辞めてしまう。

町田:さっきエジプト的な絵から子供のような絵になって、その流れの中で戦争や沖縄を題材にした作品を描かれるじゃないですか。

稲嶺:戦争に将軍とか女とかいうのは、ある意味では非常に陳腐なテーマではある訳さ。将軍が威張って戦争をして、側に女をはべらせて、そんな感じ。当時はベトナム戦争だったんじゃないかな、戦争があるときにそのテーマで何点か描いている。

町田:60年代の半ばにそういうテーマがあって、また最近の作品に近い、70年代は家族をテーマにした作品に移っていかれる……。

稲嶺:60年代の緑っぽい線描きの絵についてもう少し話したい。このスタイルが10年くらい続いてるね。なんで緑か僕分からんかった。ところが後で考えたらね、緑はね、中くらいの明るさでね、そんなに主張しないっていうか色自体が。それで要するに、明るくしたり暗くしたり、いっぱい変化が付けやすかったんじゃないかな。例えば同じ明るさくらいで赤だったらさ、強すぎる訳ね。ずーっとみんな真っ赤だったら、絵を描く側も疲れる。それに対して緑はね、薄くしたり濃くしたり、それから他の色入れてもいじめない色なのかもしらんと気付いて、それが10年くらい続く。その内にふっと輪郭線を消し始めたのね。絵が変換するときははっきりとした理由持たん場合が多い訳さ、欲求で変わっていく。あとでこんな意味だったかもしらんと、気が付くけど。
 70年代になって、線を整理し始め、あっという間に面の絵になっていく。平面にきれいに塗るっていう技法に変わりますけど、そのときに一つの課題が出てくる。線の絵の場合には上にも下にも適当に何でも置けた訳さ。ところが平面できれいに処理すると画面の上は空、下は地面みたいにはっきりして、僕らが見ている現実の空間に強く支配される可能性が出てくる。そういう遠近法的なこの世界を崩したいということで、画面を幾つかに区切って、どの区画の絵にも地面があり空がある形になった。こっち空き過ぎたと思ったら、また地面が在り、空が在りっていう感じの空間に切り替えて、上から下まで均一な密度で絵が描ける。ま、そんなふうな絵がずーっと続く。
 鼻の話をしよう。面の絵になって鼻の処理が難しくなった。あるとき、雑誌だか画集だかを見ていたら、ローランサンの正面向きの絵があった。鼻を薄く描いてある。絵を離して見ると見えなくなる。その時、鼻は描かなくても良いのだと気が付いた。私の絵の顔に、鼻を描いていないと気が付く人は少ない。
 家族をテーマにした作品が多いのは確かだが、私が他の人と比べて家族に対する愛情が深いわけではない。このことについて考えてみた。私の絵は稚拙な形で成り立っている。稚拙な形というのは、正面性が強い。ものを正面から見るか真横から見ることになる。正面から見ると大体直立した形となる。男と女であれば、愛し合う二人となり、そこに子供が加わると家族になってしまうわけ。そういうことで家族が多くなった。
 後に顔の向きをいろいろに変えたいと思って花を活ける人たちを描いたり、直立不動をくずすために、花を植える人を描いたりしている。

町田:80年代に入るとまたちょっと作品が変わって、イラスト的というか……。

稲嶺:きっかけはね、県立図書館に壁画を頼まれたこと。館長が僕の同級生で、「そこに図書館つくるから壁画考えなさい」って言う。ずいぶん縦長になるのだが、試行錯誤する内に、この画面内の重力を取り外そうと思った。つまり空も地面も描かないで、ものを浮遊させようと考えた。そして、読書という一つのテーマにして、これまでの小さい区画もなくそうと考えた。あの絵では本を読んでる人間が宙に浮いて飛んでるような感じになってる。そうすれば、例えば画面の下が密度が濃くなって、上が薄くなるということもなく、勝手に均等に画面を埋めることが出来る。そういうことで図書館の壁画は過渡期の絵なんです。
 そのうちに面を潰して線にしようってなって。そのときに線で形を閉じないように考えた。例えば、人間の顔が丸くあっても、上と下で線が離れて少し開いている。右と左の線の色が違う。囲まれた形がないんですよ。囲まれた形を描くと、それはものになり、それ以外は空間になる。その差別をなくそう、画面全体を均一にしようというのがねらいだったのです。それで囲みの線を少し離せば、そこから空間が入り込み、ものも空間化してしまうという計算なのです。囲みの左右の線の色を変える、たとえば、右を赤、左を青にすると、線も前後して立体的な空間化ができる。ちょっと理屈っぽいですが。形には目も口もあるから人間の顔には見えて、ストーリーは読めるという構造。後になって線だけっていうのは弱く、パンチがきかない。それで背景に色がついてきた。
 ちょっと補足するが、この空間化の理屈たけど、そのことに気が付いたのは10年ぐらいも経ってから、次のスタイルに変わってからのことです。当時は描きたい欲求だけで動いていました。  90年代になって、これと逆なことをやり始めた。空間をなくして、すべてを面で埋め尽くす。例えば、空を背景に木があるとすると、木の枝と枝との間を空色で塗ると、木の後ろが空間になる。けれども二つの枝と枝の間は空色に塗るが、別の枝との間は赤を塗り、もう一つの枝との間は緑を塗るとすると、木の後ろは空間ではなくなる。こんな調子で画面全体を埋め尽くしたら、きらきらする多彩な絵になった。
 次に、人物ばっかり描いてるけど、静物は描けないか、風景は描けないかって疑問を持ったんです。で、風景描こうとしたら、どうしても地面があり、空がありになる。空間的には、後退しますが平面性は貫いて、稲嶺風な雰囲気を残しながら、風景画を描こう、静物画を描こうという感じになっています。いい意味では整理されてるけど、悪い意味では元に戻ってきた感じになる、そういうことが言えます。

町田:成祚さんはもともとクリスチャンなんですか。

稲嶺:クリスチャン?クリスチャンじゃないよ。

中島:妹さんだけですか?

稲嶺:兄弟では妹だけ、女だけ。僕の妻もクリスチャンだった。「なんで君はクリスチャンにならなかったか」って同期生に訊かれて、ちょっと考えた。「僕、アイデンティティ失うみたいな感じがしてクリスチャンにはならんかった」って言った。あれは西洋文化だのにって感じが僕にはあった。

大山:作品についてなんですけど、様々な要素が画面の中で均等に存在している。それこそ異なる時間軸を持った、空だったり、月、人間っていう存在、またもっと小さい装飾的なモノだったり風景だったり、いろんな要素が画面の中で等しくあるような、絵に対する考え方に特徴があって興味深いなって思っていたんです。

稲嶺:今言われたから思い出したけど、今の課題は、抽象的な形と具象的な形。例えば、あの方が仕上がってるから分かりやすいけど、こんな昼と夜の時間差もあるさね、もうひとつはこんな星とか意味のない形があるさ、抽象的な形と具象的な形、前はそんなに抽象的な形はあんまり無かったけど、具象的な形がいっぱい入ってはいる。ただ画面を埋め尽くすためにいろんな色が入ってはいるけど、抽象的な形というのはそれ程じゃないですね。それがここ二、三年、まぁ抽象的な形、具象的な形、そういった画面構成で自由に入れられるようにしたいと。画面に入れるというのは、この画面全体の統一感とかさ、或いは自分が表現したい一種のなんていうんだろう、調和みたいなものを乱さないようにやらんといかんさ。それが課題でね、今気にしてるのは抽象的な形をどう入れるか、具象的な形をどう入れるかっていうものが一つある。これまでの絵で、昼の景色と夜の景色、あるい田舎と都会が並列されたりはするが、意味のない抽象的な形はそれほど入ったことはない。これまでのこうした絵に、唐突に意味のない抽象的な形を入れて、それで不調和にならず、むしろ装飾的な効果が発揮できるような絵が描けないか、そんなことを試してみたい。そして画面構成がもっと自由にできるとよい。
 僕の絵は、別な空間を持ついくつかの画面が組み合わされる構造をもっているのが多いが、これは画面を均一な密度にするのには便利なやり方だからです。従来の写実的な空間では、手前のものが大きく、遠くにいくほど小さくなって、その果ては、穴としての空間、つまり空となる。そうすると、上が軽く下が重い画面となる。それを嫌うっていうか、もっと上にも力のある色や形があって、上も下も緊張した画面作りがしたいということで、複合空間をもつ絵となった。この構造は60年代の線描きの絵と同じですね。

 少し様式について話しておきたい。昔先生方がよく「自分は傑作を一点描ければ後は死んでもいい」などと話しておられた。あの頃はそういうものかと思っていたが、今思うに、そんなことはあり得ない。傑作ができるというのはその様式をつくることなんだよ。技術もすばらしく、完成度も高いから良いのではなくて、その前に、どんな画風ですか、どんな様式ですか、それはあなたの創造したものですかが問われる。大作一点を頑張ったから傑作になるのではなく、本人の創り出した新しい様式の中の代表的な作品が傑作になるのであって、これまでの作品と関係なく傑作が生まれることはない。
 1966年か7年頃かな、沖縄工業高校のデザイン科の教員をしていたときのことだが、台湾の工業教育の視察に行ったことがある。当時、台湾ではアメリカ的な工業教育が盛んだった。教える範囲を細分化して専門家を養成するやり方、例えば、日本の工業教育では板金は機械科の中の一部でしかないが、あちらでは板金科をつくって、それだけを教え、訓練し、専門家を養成するやり方。その影響で、後に沖縄に職業専門学校がかなりできた。その話は別として、あるとき台湾でキャバレーに招待された。日本からきたということで、女の子たちが日本の演歌を歌って歓迎してくれた。ちょっと、しどろもどろの日本語で上手でしょうと。その気持ちはわかるけど、僕はなんだか恥ずかしい気持。なんで自分の歌うたわないのと思った。でも、ふっと思った。僕らヨーロッパの美術を一生懸命真似してる、ちょうどこれと同じだなって。ヨーロッパ人から見ると、なんでフランスの絵の真似してる、なんで自分の絵かかないかと思うんじゃないかと。人のもの真似したら、いくら上等に描いたって、他人の様式じゃ仕様がないですよっていうふうに思ったね。だから、創造するってのは絵を一枚仕上げるんじゃなくて、その絵の成り立つもっと下のところから創造的でなければいけない。
 いつだったか県立美術館の裏の庭で討論会したことがあった。あのときに誰か若い人が、ヨーロッパの勉強一生懸命やって、日本より早く進みましょうっていうような言い方してたよ。僕はちょっと「えー」って思った。なんでヨーロッパか、日本の自分のもんつくれーって僕は言ったけどね。つまりさ、あの発想は戦後のコザの音楽、アメリカから流れてきたジャズを日本より早く先取りして、アメリカ兵を納得させるために頑張って、沖縄がジャズではヤマトより進んでいたって話があるけど、これは、ジャズを沖縄が作った訳でも何でもない。結局は自分の歌作らないといけないんじゃないかと。そのことを一番言いたかった。

大山、中島、町田:ありがとうございました。

アーカイヴ

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