OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT

大城カズ

大城カズ(1967年~)
沖縄県浦添市生まれ。カリフォルニア・ロサンゼルス大学卒、同大学院を修了。ロサンゼルス在住。高校卒業後、ロサンゼルスに渡り、大学で美術を学び、大学院に進学、修了する。自動車のバンパーや冷蔵庫やキッチンの戸棚、アンプなどをキャンバスで本物そっくりに作る。ミニマルアートやポップ、コンセプチュアルアートの影響が見られ、抽象表現主義以降の絵画の問題意識を制作の軸に、東洋的と言われる表現者の「特権的主体」を押さえた作風で、西海岸のみならず、米国以外でも注目される。

インタヴュー

収録日:2012年5月16日
収録場所:沖縄県立博物館・美術館(那覇市)
聞き手:翁長直樹 撮影:大山健治
書き起こし:大山健治

翁長:生まれはどちらになりますか?

大城:沖縄県那覇市の古波蔵ですかね。と言うのはすぐそこ(那覇新都心近く)にあった病院で生まれてるんですけど、ちょうどここら辺、復帰前のここらへんに病院があったの知ってます?ピンクの。あれ何だったのかな、基地のすぐそこら辺に病院があったんですよ。

翁長:米軍の、米資本か何かの?

大城:何だったんですかね。でもすぐほんと那覇の基地の始まる前のところに一つ病院があったんですよ。もうすぐ近くに。そこで生まれて、その時にいたのが古波蔵ですね。

翁長:家族構成は?

大城:2番目なんですけど、うち兄貴がいて、僕で妹、弟ですね。

翁長:お兄さんとはどれぐらい(離れてる)?

大城:2つ違い。妹とも2つ違って、弟が7つぐらい離れてますね。

翁長:じゃあ、次男だとどこでもいける(笑)。

大城:そうですね(笑)。好き勝手やってます。

翁長:小さい頃どのようなお子さんでしたか?

大城:結構、好奇心はあったのかなと思いますけどね。まあ、ちっちゃい頃から絵を描くのが好きというか、家に篭って落書きしてる時間が長かったとは思いますね。

翁長:結構美術が好きだった。

大城:そうですね。だから夏休みの図画工作の宿題とかも喜んでやったし、あとちっちゃい頃からなんか読書感想文とか、新聞社主催の絵のコンクールありますよね。あれはほとんど小学校は一年生から六年生までずっと賞もらったんで。

翁長:それは凄い。

翁長:当時の浦添の風景と言うのは?

大城:そうですね。まあ基地が近いんで、はじめ大平という所にいてそれから屋父祖と言うところにいって、今牧港と言うところに移って、小学校入る前ぐらいから牧港ですね。だから基地の近くだったのでちっちゃい頃から。洋書屋さんとか、そういうところには結構興味があって入り浸ってはいたんですね。

翁長:基地の中のイベントとか入ったり。

大城:まあ、隣近所が結構、軍に勤めてる人多かったので、牧港のクリスチャンスクールに近いところで。で、隣の人とかフィリピンの方で軍に働いている人で、そういう人たちがいっぱい近所にいたんで、そういう人たちと一緒に中に入ったりはしてました。

翁長:同じ浦添の芥川賞作家で、又吉栄喜というのが基地とこの沖縄の人達の交流を書いてるんですけど。基地に行ってアメリカ人と接してるという、この何か思い出みたいなのは。

大城:そうですね。やっぱハロウィンとか、そういうイベントは中に入って、まあだいたい一年に一回入るとしたらハロウィンの時に。その基地関係の仕事してた隣の人達が中に連れて行ってくれるんですよね。それでキャンディもらったりとか、まそういう感じだったんですけど。

翁長:復帰前の当時のエピソードというのは?

大城:復帰前、そうですね、やっぱりちっちゃい頃まだドル使ってる時代だったんで。まああとは住んでるとこは外人住宅が沢山あるとこの環境で育ったんで基本的その、まあ翁長さんもそうかもしれないですけども、アメリカ文化が結構ある中で育ったので、食べ物にしてもそうですよね。だからそういう意味ではアメリカに行った時には違和感はそんなには無いというか、まあ懐かしいと思うことはあっても、そんな何か新しすぎてびっくりしたということは無いかもしれないですね。

翁長:小学校、中学校の美術は?

大城:中学ぐらいかな、比較的ファッションに興味があったんで、だからまあ現代美術とその時は認識してないかもしれないですけども、そういう雑誌の中で例えばアンディ・ウォーホルだとかキース・ヘリングだとかそういうふうにニューヨークで何が起こってるかというのはそういうファッション雑誌から見てたんで、だから比較的そういうもんに興味は惹かれてた部分はあるんですよね。あの、だから全然分からないという訳じゃなくて、アンディ・ウォーホルがニューヨークでどういうことやってるとかキース・ヘリングがそういうストリートで落書きしてるていうことは凄い認識してたというか。だから結構、那覇のショップで売ってるキース・ヘリング、本物だったのか偽物だったのか分かんないけどTシャツとか中学、高校から買って着てたから多分、うん。

翁長:高校の美術の授業は?

大城:うーん、高校の美術の授業、そうですね、でもまあ一般的な、う―ん、何やってたのかな、基本的には宿題というかそのお題出されたものに対応していくだけだったと思うんですけど。

翁長:選択授業ですよね。

大城:そうですね。だからどういう授業してたかと言われるとなかなか思い出せないんだけれども、でも多分美術のクラスが無くても何か自分なりに作ってたことは確かなんですね。うん。まあ作るのが好きだったってことですね。それはデザインでも。だからあの頃、当時の日本ってあんまり現代美術というよりもデザイン的な動きが多かった思うんですよね。コマーシャルと言うかまあ広告代理店が、えっとあの頃だったら日比野克彦さんとかね。スターだったし。

翁長:アーティストを志したきっかけは?

大城:きっかけは(笑)。えっと、まああの、実際その手仕事というか物作るのは好きだったんですけども、結構現実的だったんでずっとサラリーマンになりたかったですよ、公務員と言うか。だから高校時代運動してて、まあ陸上やってたんですけども、まあ県の代表だったりなんやかんやしてたんで、、。だから大学行って学校の先生になろうかなとか、そういうのは思ってたんですけどね。だから美術、もちろん、まあちっちゃいころは漫画家になりたいとか言ってたんですけど、だんだん大きくなるにつれて現実的というか。とにかく家が自営業だったのでその自営業したくなかったんですね。サラリーマンに憧れてたんで、だから大学行って広告代理店みたいなところに勤めたりとか、そういう夢はあったんだけども、あんまりアートで飯が食えると思ってなかったんですね。

翁長:当時の沖縄の美術界というのは?

大城:ほとんど、その美術というと多分、県展ですよね。習字とか。あとは絵とかはどうだったんだろう、あまりその絵を見た覚えが無いんですよね。でも良く覚えているのが、ちっちゃい頃よく行ってたハンバーガー屋さんがそういうちっちゃいパーラーみたいなところにアメリカのダイナーというかレストランの、えっとあれですよね、フォトリアリズムが流行った時。70年代……。

翁長:リチャード・エステス。

大城:リチャード・エステス的なそういうダイナーのポスターがあって、それを見て絵なのか写真なのかていうのを友達と話した覚えがあるんですよ。だからそういう意味では、まあまんまと引っかかったというか、そういうだから絵なのか写真なのかという問題を考えるような、なんとなく多分まあ素質があったのかなとは思うんですよね。普通興味なかったら別に何とも無いと思うんですけど、凄い気になったの覚えてるんですよね。

大山:身近に画家がいたりとかは?

大城:ちょうど家からちょこっと歩いてもうすぐのところなんですけども、お袋がいつも、ああ、あそこに有名な画家の、ご子息なのかな、とにかく親戚というか血縁関係にある人だよって言うのをよく聞いてて、ああそういうちゃんとまあ画家がいるんだなというのは、うん、頭の中にずっとありましたけども。職業としてというか。

翁長:アメリカに渡るのは何年?

大城:高校卒業したのが1986年で、卒業して2ヶ月後ぐらいにはもうもうすぐ行きましたね。

翁長:どういう目的で?

大城:うーん、まあ単純にどういう事が起きてるのか見てみたい。ほんとに興味があったというか。もともとそのアメリカ文化、僕らが高校になるときってもうほとんど復帰して結構長いから結構日本的な環境になってたんですよね。それでだけど文化的なものは音楽が好きだったりとか、そういうあの当時だったらファッションとかカルチャーとかそういうものに興味あったんで、とりあえず何が起きてるか知りたいていうのが一番強かったとは思うんですけどね。

翁長:あの時代に高校卒業してすぐアメリカに行く人はあまりいないのでは?

大城:いや、僕らの時代って言うのはちょうど円が大体170~180円ぐらいから、あれ?違うな270円ぐらいから180円くらいになった時代なんですよね。そこからまあどんどんどんどん安く。だからプラザ合意以降だから、もう円が大分1ドル180から70ぐらいになってたんじゃないですかね。

翁長:円高にどんどんなってくる。

大城:そうですね。だから僕らの学校の同級生多かったですよ。知ってるだけで7,8人ぐらい。

翁長:彼らはどうしてるんですか?

大城:ほとんどは、でも少しはアメリカに残ってるかもしれないですね。2、3人ぐらいは。もちろん僕もそんな長居するつもり無かったんですけどね。あの、出来るんだったら早く(笑)学校行って卒業して帰って就職したいと言うのが1番の目的だったんで。だからそれに間に合わなかったていう(笑)。

翁長:目的はじゃあ大学に入ると言う?

大城:そうですね。まあ学校行ってとりあえず帰ってくれば何か仕事があるんじゃないかって思ってたんですけどね。

翁長:大学にはどれくらい通ってたの?

大城:えっと、アメリカ行って88年ぐらいかな、1年半後ぐらいにまあ短大と言うか、行き始めて、それからまあちょっと1年ぐらい沖縄に戻ってきてまた行って、えっと大学入ってまあそこでオチこぼれて、10年ぐらい卒業できなくて(笑)。と言う感じですかね。まあそれで卒業して、何故か知らないけど大学院行こうかと思って大学院まで行ったと言う。

翁長:これ、UCLAの4年生の大学の中に美術の専攻というのが、、、4年終ってから大学院で美術の専攻?

大城:まず訂正させて頂くと、カルステートLAという、カリフォルニアにあるUCシステムというのと、UCていうのはドクターだから博士号まで取れる研究機関なんですよね。その下がカルステートって言ってそこは修士までしか出さない。だからそこ修士出すカリフォルニア州立大学のロサンゼルス校というところで始めから美術専攻してましたね。というのは多分1番単位が取り易いんじゃないかなと思って。だから最初は建築、短大行き始めの頃は建築ちょこっと勉強したんですね。1年半ぐらい。

翁長:アメリカではどんな作品を作ってたんですか?

大城:最初の10年、大学院に行くまではほとんど学校に席あって学校に行ってない状態が続いてたんで。もうただ出された宿題こなしてるというだけで、作品作ってるという意識ももう無かったかも知れないですね。結構ひどかったので。

大学院に入ってからというのは、まあそのときある程度自分でどうにか出来てたんで経済的に。じゃあ大学院もとりあえずなんていうのかな、納得行かなかったらやめようというのが最初にあって、まあだけどどうなるか見てみたいからということでやってたんで、そこからですよね、今の作品のシリーズが始まったというのは。だからとりあえず材料を無駄にしたくないということと時間を無駄にしたくないということで、今のやってること始まったんですけど。

翁長:影響を受けた作家というのは?

大城:そうですね。実際、現代美術が面白いなと思ったのはジョン・ケージあたりなんですよね。コンセプトというか。それまでポップアート好きかなって思ってたんだけどでも本質的な現代美術の楽しさって考えた時に、やっぱりその考え方だと思うんですよね。だからジョン・ケージの4分33秒の話聞いたときに、現代美術ってこんなに面白いんだなって思ったきっかけがやっぱりそこですよね。あとナムジュン・パイクとかもそうですけど。あとはカリフォルニアだとエド・ルシェとかマイク・ケリーとかポール・マッカーシーとかいますけど、でもほんと美術勉強してて現代美術が面白いなと思ったのはやっぱり、フルクサスとか、ある意味東洋思想もった西洋の作家達ですよね。

翁長:結局この、自分がアジア人であるという意識が違うというのは。

大城:それが不思議なんですよね。だから結局自分では何でしっくり来るのか分かんなかったんですけど。というのは結局、比較的日本に育っていながらあんまり禅思想とか気にする人いないですよね。だから結局アメリカ人に禅ってきかれても分からないし。まあ禅っていっても色んな要素が日本の場合は神道だったり、仏教だったり混ざってるから、あまり自分で勉強したわけでもないし、はっきりは分からなかったんですけど、でもやっぱり何で惹かれるのかなと考えた時に、まあそういう東洋的な考え方のほうがしっくりきた、というか多分分かったというか、感覚的にしっくりきたんですよね。

翁長:日本よりも、禅思想多いですよね。

大城:そうですね。多いです。やっぱり戦後その鈴木大拙やって、そこからそのまあビートニクスというかビート文化と繋がって、まあヒッピーが始まって。だから、今のアメリカの現代美術というのはそこら辺の若者文化が始まるきっかけだったのが今までの西洋的なキリスト教の2元論ではないところから始まってるから、そういう意味では個人的には今のアメリカのアートはやっぱりヒッピー文化がないとそこまで、まあ新しいポップアートの概念とかそういうのはなかなか出づらかったんじゃないかなと思うんで。

翁長:そういう意味では根っこが共有するものがあるのかもしれないですね。

大城:うん。と僕は思ってるんですよね。だから逆にあまり日本人て意識しなくても、もうアメリカの戦後美術の流れがそのある意味東洋思想を汲んでると仮定するんであれば、そんなに東洋的なものを投げかけなくても伝わるんじゃないかなと自分の考え方なんですよね。

翁長:当時のロスの状況というのは?

大城:その当時のロサンゼルスというのは、社会的経済的に言えばアメリカがもうどんどん衰退していくというか経済的にもう弱くなってて、そうですね、景気が悪かった時期ですよねアメリカが。もう車の産業が駄目で、そのまあ基本的に自国でそんなに物を作らなくなって海外に工場出して、あとでいったらニューヨークのほうが多分80年代というとニューペインティングとかあって、そこそこ良かったと思うんですけど、ロサンゼルスはその頃ギャラリーでいえばほとんどもう5本指で数えるぐらいの感じだったんじゃないですかね。そんなに景気が良くない。

翁長:ロスの生活、制作はどんな感じで?

大城:そうですね。ロサンゼルスの1ついいところは、人に会おうと思わなければ一切会わないで済むというか、車なんで。そういう意味ではそうですね、結構スタジオに篭って作業しようと思えば出来る環境というか、あんまり雑音が入ってこない環境にあるんで。まあもともとロサンゼルスはアーティストにとっていい環境なんじゃないですかね。そんな別に人付き合い嫌いだったらそんなにしなくてもいいし、人付き合いが好きだったらそれはそれでちゃんと出来るし。

翁長:ロスの記憶に残る事柄、社会的な出来事とか。

大城:やっぱりあれですよね。まずは湾岸戦争のときもアメリカいたので、それも結構記憶に残ってるし。というのはあの頃までまだ徴兵があったんですよね。それでもちろん日本人だから戦争行けないんですけど、市民権持ってる持ってない無しに結構赤紙が来るんですよ。だから友達とか赤紙来たという人いて。まあもちろん市民じゃないから行かなくても良いんですけど。だからそれで結構、現実味があるというか、ああ徴兵ってこういうことなんだというのはありますね。あとはまあ、ロサンゼルスの暴動とかですかね。まああと911。

翁長:朝鮮人のね。狙われましたけど。あの時はいなかったですか?韓国コリアの人たちと。

大城:ロサンゼルスの暴動の時ですよね。もうニュースで見て。銃持って撃ち合いしてて。

翁長:その現場というか。

大城:現場というか、でも結構家からそんなに遠くはないし、今でもたまに通るところですけどね。でもホント。

翁長:ロスなんか、メキシコ系とかどんどん増えていってる感じしますけど。

大城:そうですね。もうほとんどは、多分もう半数以上越すんじゃないですか、あと数年で。自分が住んでる周りもやっぱりスタジオの近くもほとんどヒスパニック、まあラテン系のというか、メキシコの人が多いですね。

翁長:ニューヨークに行ってから、アジアソサエティ(の展示)とか、あれだけしか見てないけど。

大城:そうですね、なかなかね日本でも展覧会やってないし、基本的にはロサンゼルスとニューヨークとフランスは結構仕事多いんですけどね。

翁長:フランス。理由は何ですか?

大城:理由は何なんでしょうね。まあフランスも何ていうのかな、結局モダンまで栄えててまあ戦後ニューヨークに取られますよね。だけどもすごいなと思うのは文化政策に対してやっぱり国策としてお金結構使ってるんですよね。そのかわりフランス国内の作家はずっとあまり出てきてないし、あのどちらかと言うと国内の作家よりはそのアメリカの作家に対しての興味が高いというかお金使う傾向になるんですよね。まあ、これ結構いろんなところで、多分フランスだけではなくてある意味舶来というか外から入ってくるものに対したらやっぱ付加価値が付くから受け入れると言うか、結構優遇してる部分もあるんですね。だから日本のアートにしてもフランスでやったり、村上隆さんとかは、まあそういう日本の作家に対しての関心度というか、写真家でもアラーキーさんとかもフランス。その代わり国内の作家に対してのサポートが弱いんですね。だから、まあそういう流れでここ10年ぐらいというのはカリフォルニアのアートって言うものが比較的受け入れられて、まあポンピドゥ―センターで何年前かな、7年前ぐらいかな、ロサンゼルスのアートを総括する大きい展覧会あったんですね。その流れでやっぱりロサンゼルスの作家に対して興味がある、ということなんですよね。だから、またニューヨークと違った流れがある。例えばエド・ルシェとかジョン・バルデッサリとか、マイク・ケリーとかポール・マッカーシーとかそういう、西海岸独特の作家に対して興味持ってるというのはあるんじゃないですかね。だからその流れで自分達の世代ぐらいまで興味持ってもらってる。

翁長:西海岸と言うのは、何か日本で言うと関西のイメージがあるんですけど。結構自由にやると言うか。

大城:そうですね。だから基本的にはマーケットが無いからどうしても完成された作品作るよりは、パフォーマティブな作品が、だからお金にならないような作品を何十年にも渡って作っている人がいるから、それがなんていうんですかね、花開いた時に、やっぱりその厚みがあるという。だからあのコマーシャルに乗っていかない様な作品が沢山あるということは時代が変わればそれが新しく見えるという。だからそこら辺が結構まあカリフォルニアの、、、。結局その今みたいな何ていうんですかね、マーケットができるというのが90年代以降なんですよ。90年代の後半からマーケットが成立し始めるから。

翁長:93年の夏、95年かな。ホイットニービエンナーレ見たんですよ。96年だったかな。西海岸の作家がワッと入っててびっくりしたんだけど。それは新しい傾向なんですかね。

大城:と言うよりも、結構外からなかなか見えにくいんですけど。じゃあニューヨークの80年代のコンセプチュアリズムというのはどういうところから来てるかと言うと、実際半分はロサンゼルスなんですよね。というのはロサンゼルスはマーケットが無いから学校卒業するとニューヨークに行くと。そういう人たちが成功し始めて、どんどんそのコンセプチュアリズムが広ってから。だからもちろんロサンゼルスだけのせいじゃないんですけどもロサンゼルスの影響と言うのはすごい強い。というのはデビッド・サーレとか、ジェームス・ウェリング、えっとバーバラ・クルーガーどうだったかな?

翁長:デビッド・サーレは西海岸?

大城:西海岸。だからそういう人たちがカルアーツという学校でジョン・バルデッサリとか、アメリカのコンセプチュアリズムを代表するような作家が教えてて、それでロサンゼルスのギャラリーが少ないもんだからニューヨークに行くんですよねみんな。そこで、例えばメトロピクチャーズていう有名なギャラリーがあるんですけども、そこのお抱えの作家というのは半分くらい西海岸の人なんですね。

だからそういう感じで、何ていうんですかね、西東って分かれているように見えても、ニューヨークからロサンゼルスに来て学校行ってまたニューヨークに戻るというあれもあるし。だからそういう意味では、日本の東京と大阪、というか京都と近いかもしれないですね。だからマーケットは無い、ギャラリーは無いけども京都で学校行って作家になって東京で発表して、だけども住むのは京都。そういう感じですよね。

翁長:戦後の大家みたいな作家は?ポロックとかももちろんそうだけど。

大城:ポロックとデ・クーニング。やっぱり抽象表現主義で、一通りそこで終ってしまってるという考え方ですよね。というかあの一番シンプルな方法で、キャンバスとペイントだけで、まあ抽象だからもう、極端にいえばその絵の具と一筆でもう全てそこで表現出来るんで、まあそこでやりつくされたというか。それがそこで絶望感を覚えた人がミニマリズム始めたりコンセプチュアリズム走ったり、だからそこなんですよね。だから今多分、基本的に自分が考えてるのがそこなんですよね。結局ポロック、デ・クーニングで一通りもうすべて、絵画の歴史と言うかペインティングがもう完璧に終ってると。これから新しい作品が出せるかと言うとなかなか難しいですよね。

翁長:難しい。

大城:だからそこでどういう風にして、もう一回その、でもアートが目指してるっていうのは基本的には抽象的な理念と言うか、考え方、見方というところでは一致してると思うんですよね。だから写真でも多分行き着くところは、写っているものが抽象的だというよりも、まあ概念ですよね。だからビデオでも今でも多分やる必要があるっていうのは、まあ映像作品とか写真とか確定されて、まあ写真はもうここ10年でそうとう確定されてますけども、やっぱり映像作品ていうのはまだあの、そこまでその抽象というか行き着くところまで行き着いてないというのは多分テクノロジーが前に進んでいるからもうこれで、やることがないところがまだ探せてないところがいいところなんですよね。だからそこにやる意味があって、でもまだ問題が沢山あると。ペインティングは逆に一回死んでるんだけれども、でもホントに死んだのかって。何かまだ可能性があるんじゃないかって考えてる人もまだいるからそれだけペインティングが続いてるとは思うんですよね。

翁長:今さっきの西海岸の、そのコンセプチュアリズムとちょっと、それ踏まえつつちょっとずれた所で勝負しようと。

大城:うーん、そうですね。だから基本的には、アメリカ戦後美術をどう捉えるかという考え方ですね。だから、まあマルセル・デュシャンが結局フランスから来て、まあその前にも第一次世界大戦、第二次世界大戦でもうほとんどヨーロッパのその政治状況とか経済状況から疲弊していく中で、そういうマーク・ロスコとか、ヨーロッパで活動してた人がニューヨークに移ってきて、そこからのことに興味があるというか、だからデュシャンが出てきて抽象表現主義が出てきてポップアートが出てきてコンセプチュアリズムが出てきてミニマリズムが出てくる。それをどう自分なりに向き合うかと言うのが基本的な考え、テーマというか。だからそれは、問題意識……そのアメリカに住んでる問題だから、住んでる人達とどういう風にしてその歴史を共有してどのように新しいその……何ていうのかな、ものが……。もう実際終ってるかもしれないですよ、コンテンポラリーアートが。だから死んでいながら例えば抽象表現主義が出てきてからそれ以降というのは、ある意味死んでるものをもう一回焼きなおすと言うか、そういう状況になってるかもしれないけど、それでも何か可能性があるのか無いのか模索してる状況を一緒に考えたいなという考え方ですかね、どちらかというと。

翁長:作品ですけど、このキャンバスを使ってこういう作品を作るようになったきっかけというのは?

大城:そうですね、もともと絵の問題ですよね。だからまあアートの歴史を学校で勉強しながら作品を作っていくわけなんですけども、もうそうするとやっぱり、抽象表現主義である意味全てというかシンプルな、まあ何故アートがアートかというか、そういうアートがアートである所以というのは多分そこで1回幕が下りるような気がするんですよね僕は。多分それはアメリカの評論家のクレメント・グリーンバーグが言ったんですけども、多分そうに違いないという同じような共感を受ける部分はある訳ですよね。というのは凄い表現方法がシンプルじゃないですか。ほんとキャンバスがあって絵の具があってブラシがあってそれに自分が描きたいのが物でもない何か分からない、言語化できない。多分それがアートの本質というか行き着くところだと思うんですよね。だからそれを考えた時に、でも同時に絶望感というか、もう先には何があるんだろうかという疑問があって、それでも彫刻やりたいとか他のミディアム使いたいとか、何故か知らないけどペインティングは続けていきたいと。そう考えると、じゃあどういう方法が残されてるのかというのがまずひとつの、まあ疑問というか、自分であの、、。それはプロになるならない関係なしにじゃあどうやって絵を続けていけるのかって考えた時に、まあとりあえずキャンバスと絵の具で何か作って行きたいって考えて、そうするとやっぱり、何ていうんですかね。肉体はだから肉体的にそういうものを作りたいという欲求はあるんだけども、ただその、まあ性格的なものもあるんでしょうけど、人に見せるのが恥ずかしいという自分がいるんで、なるべく作って人が見て誰が作ったのか分からない、アノニマスというか。ある意味、人が見ても作品だと分からないような作品を作りたいというのがきっかけですよね。そうすることによって基本的に自分が作りたいって言う欲求はそこで解消されるんだけれども、日本的な考えって言うのはそこなんですよね。まあアメリカというかヨーロッパというか、そういう西洋美術全般に言えることは、その表現というのは前に押し出すものであって、受動的なものではない。主体的なというか前に自分から押し出すというイメージがあるというか、まあ基本的にそういう教育ですよね。だから自分のスタイルを持ちなさいとか、積極的に前に進むイメージだったんですけども、僕は物は作りたいけども人に見せたいという欲望はそこまで無かったんですよね。そうすると作って作品としてすぐ認識されるようなものではやっぱりその羞恥心に耐えられないんですよね。だから人に見てもらいたいというよりも、人が見ても分からないものを作れれば、自分のその精神的なバランスと肉体的なバランスがとれるんじゃないかというところですよね、はじめたのは。

翁長:それと関連してモチーフが、ゴミ箱とか電子レンジ、バンパーとかそういうものというのは関連してるわけですよね。

大城:そうですね。基本的に最初に作ったのはアンプなんですけども、まあそれも元々は、まあよく音楽を聞きにいってたというのもあるんですけども、でも好きだから作っているというよりは、例えば、接続可能というか連結可能なもの、モジュールっていうですかね、だからちっちゃい部屋だと1個で済むけども、大きくなると数を組み合わせられるものって考えている。だからペインティングと考えて、例えば普通のペインティングだと壁に掛けますよね、まあ合体させるというか、つなぎ合わせられないじゃないですか。1つの絵というのはひとつで完結してしまうから。だからそれではなくて結局、その絵の手法はとってるんだけども、そのまた従来の絵とは違うものを作りたいと思った時に、もっとインスタレーションに興味があったんですね。だから絵のインスタレーションって考えた時に、まあ一般的な絵だとライティングが必要になってくるというのが必要ですよね。それで白い壁が必要になってくると。それで壁も、作品を綺麗に見せるためにある程度のスペースが必要になってるとか、そういうものからちょっと離れたいというのもあって、それが考え方でいえば普通のペインティングも厚みが出るとレリーフになるんですよね。レリーフになって床に落ちるとスカルプチャーになる。だから言い方が変わっても基本的には、根本的には同じ。僕の場合、だからこの薄いペインティングが厚みが出て地面に降りたということなんですよね。そうすると、ペインティングの言語は使っているんですけども見た目がペインティングとはやっぱり、インストレーションの方法が違うから、スカルプチャーとして分類されることはあるんですけど。基本的に問題解決しようとしてるのは、絵の問題が根本的な問題なんですよね。だからそれでいくと例えばモジュールというか連結可能なものを考えるとスピーカーみたいに機能がはっきりしてるものというのはある程度、見た人がそれがどういう物かというのは認識しやすい。音を出すものというのをまず認識して、それがひとつあれば大体どれくらいの音が出るんじゃないかとか、それが壁みたいに積み重なると、またそれに対しての機能に対する期待感がでるけども、後ろを見るとスカスカなんで、それが機能しないものだと分かるという。だから真逆というか、その、、、そうですね、結局機能不全のものがあるというか。

翁長:いろいろ要素が絡んでいるんですね。東洋に対する思想とかアメリカ現代美術の流れとかですね。

大城:そうですね。だから好きで作っているというよりは、ペインティングとして作るときに比較的分かりやすいというか構造的に分かりやすい。だから四角い箱的なものだと裏から見たときに、構造見ればペインティングと分かるので、だからあまり複雑な形にしないようにしてるんですよね。四角い箱。

翁長:この抽象的な作品。

大城:そうですね。最近やってるのが抽象的なというか、壊れた絵みたいな。アイデアを反転させようということが。というのは、ひとついったん説明したほうがいいというのは、最初のモチベーションとして、まあそのまずギャラリースペースでやることを念頭に置いてなく作ってたと。だからプロになるつもり無かったんで、例えば友達が知人が家に遊びに来た時に自分自身は、まあ例えばスーツケース、アンプでも何でもいいんですけども、電子レンジでもいいですし、それをまず家に飾るというか置きますよね、来ても多分分からない(笑)。だから、絵をやってると聞いたけどどこに作品あるのって聞かれたときに、ここにあるよと言ってもまずわからない。見ても分からない。だからそういうことを想定して作ってるから、だから自分はそれでいいんだと思ったわけ。というのはプロになるつもり無いんだから、別にそういうもんが存在してもいいでしょという考えしかない。でもそれが仕事となってある意味ギャラリーで発表するようになってくると、結局ホワイトキューブというか、その白い空間の中でそういうものを設置していくことの辛さというか。結局、最初の考えてたことと環境が変わってくるんですよね。だから元々作品を見せるという羞恥心から今の作品を作ってるのに、その空間で予定調和的に作品を見せるということに対して、やっぱり中々納得いかない部分はあるんですよね。そう考えるとじゃあどうするべきかと考えると、あの何ていうのかな自分の中で新しい考え方が芽生えるというか。じゃあギャラリーに作品を見に来るのであれば、そのほんとにアートを見たという満足感を得られるようなものをやっぱり作りたい。機能ある物体だとああすごいねで終ってしまうかもしんないんだけど、それを超えていくようなものていうのはやっぱり抽象にしかない。だから色だとか形とか。やっぱりそういうもっと何ていうのかなシンプルな表現というか、シンプルなものを見せるというか、抽象的なもので見る人を満足させられないかなと。自分もそうなんですけども。もともと抽象がやりたくて出来ないから具象的というか形がある、まあ普通の人が見て分かりやすい物体を作ってるんですけど、でも根本的には抽象的なものに行きたいという捻くれたところからきてる。だからそろそろいいのかなと。だから自分が今まで、機能がある物体を作ってたのは、そのアイデアを同じく、根本的な絵というのはスタンスを変えずにもっと抽象的な表現に行けないのかなというのが今の状況ですね。模索してるというか。まだ途中なんですけど。

翁長:そういう意味ではミニマルアート。

大城:そうですね、根本的なものは、興味があるのは、元々はミニマリズムというのは興味なかったんですよね。好きな作家がけっこうぐちゃぐちゃしてる作家が多いので、でも自分が、さっきのモジュールの話にしても空間にそのものを置いて空間を構成するということを考えれば、多分ミニマリズムの人と比較的近い考えだったのかな。というか自分が知らず知らずに無意識に。だからドナルド・ジャットが言ってることに共感するっていうのは、彼は自分のことをスカルプターだと思っていないんですよね。彼が言っているのは自分はペインターだと。だから結局ペインティングの問題を解決しようとすると、そういう形になっていくんだと。だから僕はその言葉は始めた時は知らなかったんですけども、彼が例えば薄い鉄板で物を作って車の塗装の品番で全部色を塗っていくと。だからそれも1つの絵の解決方法でしかないことなんですよね。

だから壊れたペインティングに関しては、今まではその対象がものだから、ものというか機能がある物だからそれがスカルプチャー的なペインティングになるんですけども、それをじゃあアートというかキャンバス自体がもうある意味オートマチックで、一色、色塗って壁かければ一応ペインティングなんですよね。だからそれを考えるともうキャンバス自体がある意味、もうフォーマットが完成されてるものだから、それをまあ壊れているようにすれば、ある意味何ていうのかな、壊れた絵、物体として認識できるから、だから今度はスカルプチャーになるんですよ、絵が。あの反転させると。と自分は思っているのね。だから構造は壊れてないんですけど。一回フレームにキャンバス張って絵を描いて、それと別個に壊れているフレームを作るんですよね。それに張り替えてるだけなんですけど。だから、そうすると結局、床に置いてる絵だから、じゃあそれが絵かというと絵ではなくて、スカルプチャーというか、まあ立体作品として考えてて。だからコンセプトは似てるようなんですけど、対象が違うんで反転させてるという考えでやってるんですけどね。だからもうアート自体がもう物だろうと。例えばもう、簡素化された家具とか、おしゃれな家具とか沢山ありますよね。あの、まあ例えばこっちにあるのか分かんないけど、IKEAとか。だからそういう物自体がもうほとんどアートに近いというか、もう工業製品とアートの境目があんまりないというか。

翁長:そういう意味では、多様な意味を含んだ、多義的というか。

大城:そうですね。だからとにかく歴史を念頭に置いてて、ひとつのたまでどれぐらいの、コンセプチュアリズムもそうですしミニマリズム、ポップアート、レディメイド、まあそういう戦後のアメリカ美術で起きた、何ていうんですかね、流れを、その議論としてというか、話のなんていうか、一発の玉でどれぐらい撃ち抜けるかというかそういうことは考えながら作ってるんですね。だからどちらにも肯定しながら全部否定できるような、例えばレディメイドに対しても、例えば作ってあるそのレディメイドに対して反レディメイドなんですよね結局は。自分で作るということによってそれの否定に、クリティシズムというか批評になってて、それでポップアートに対しても、まあまだその時ポップアートはまだ絵の呪縛から逃れてないと。1つだから多分、もう1つ完璧に自分の中で影響受けてる考え方があって、これ多分ロザリンド・クラウスというニューヨークの評論家のジャクソン・ポロック評なんですけども、彼女が言うにはジャクソン・ポロックの発明というのは地面にキャンバスを置いてペイント垂らしますよね。それで絵を完成させるじゃないですか。その後が問題だと言うんですよ。というのは結局彼は絵は床で見るもんだと、そのまま美術館で壁に掛けることを拒んで床で見せることを選択したならば、絵のあり方という歴史は変わってたんじゃないかという考え方なんですよね。ただでも彼その重力を使ってペインティングして、それで重力に反する壁に掛けたと、そこで絵を見る見方というか流れを変えられなかった。だから結局はそのモダニズムから続く絵のあり方というところまでは言及できなかったという考え方なんですよね。だからそういう意味で重力に逆らわないものを作ろうと思うとやっぱり床置きの作品だとどうにか問題に答えられるんじゃないかということがひとつですよね。

翁長:面白い話を聞かせてもらいました。じゃあ最後に沖縄について。どういう存在ですか?

大城:沖縄まあもちろん生まれ育ったところで、親兄弟いるんで、もう自分の人格形成において、大事なところというか。まあ今でも帰ってこれるか分からないですけど、ずっと沖縄に帰ってきたいなと思うんですけど、仕事があれば(笑)。いや、でもほんとに生まれ育ったところで好きなこと出来れば一番ほんと幸せだと思うんですよね。だからまあ幸か不幸かというか、まあ僕も中々帰ってきて飯が食えない可能性が高いからアメリカいますけど(笑)、だからまあそれぐらい居心地のいい場所ですね。

翁長:今日はありがとうございました。

アーカイヴ

粟国久直
稲嶺成祚
新垣吉紀
上原美智子
大城カズ
久場とよ
阪田清子
高良憲義
照屋勇賢
永山信春
比嘉良治
真喜志勉
山城見信
山田實
山元文子
与那覇大智