OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT

上原美智子 【染織家】 (1949年~)
沖縄県那覇市生まれ。沖縄返還直前、学生運動が激しかった頃に東京で学生時代を過ごし、自己の将来と沖縄について考える。選択したのが織りであった。結果、現在まで続く超極細の糸での織り「あけずば織」の作家として国内外で知られる。最初に東京で柳悦博氏に教えを伺い、74年に帰沖後、沖縄の伝統的技法を大城志津子氏から学ぶ。その後「まゆ織工房」を立ち上げ、伝統から離れた独自の道を歩む。西武百貨店(東京)での個展をはじめ、MOMAでのグループ展やヨーロッパ、アメリカでの個展など国内外で活躍している。

インタヴュー

収録日:2012年3月9日
収録場所:まゆ織工房アトリエ(南風原町)
聞き手:町田恵美、翁長直樹 撮影:大山健治
書き起こし:大山健治

翁長:生まれはどちらになりますか?

上原:そうですね。那覇の与儀。

翁長:与儀。

上原:当時、楚辺小学校というところへ行きましてね。4年生からは前島小学校に移って。

翁長:前島。

上原:三越の裏側に家があったんですね。何ていうか街中に育ったというか。

町田:都会っ子ですね。

上原:今で言えば都会っ子なのかもしれないけど。

翁長:両親はレストランか何か?

上原:父は獣医で、戦前から獣医で南部の津嘉山の出身で――戦前の南部は――農家にとって家畜というもの、牛馬というものは大変な大事なもので、その主に大きな動物の獣医だったんです。戦前の麻布獣医大学というところを卒業して、まあ、牛や馬を主に見て。ちっちゃな動物ではなくて。戦後はそれで与儀の試験場というところがあって、畜産試験場に勤めてたんです。ですから公務員だったんですね。

翁長:じゃあ戦後。

上原:そうですね、戦後すぐに移ったらしいです。私はだから与儀で生まれています。二つ上の兄も与儀で生まれて。両親は結婚当初は津嘉山に住んでて開業医をしていたそうです。馬に乗って南部一帯を治療に出かけていたそうです、戦前は。

翁長:戦前は。

上原:うん、だから馬の鞍もありました。革張りのですね、よく乗馬に使っているような鞍も家にあって、そういうのに乗ってる写真もあって……馬に乗ってる写真。

翁長:何人兄弟だったんですか?

上原:そうですね、4人なんですけど、長男、長女、次男、私なんですけど……。 えっと長女の姉は顔を見たことが無いです。というのは、終戦直後に与儀に移ったときに集団赤痢というのが発生して、戦禍を生き延びたにもかかわらず、3、4人近所のちっちゃい子が亡くなったのかな。小学校1年生だったらしいですけどね。集団赤痢にかかって亡くなったと。でもその時、母は取り乱して「自分もお棺の中に入る」と。というのは、この姉は……南部は戦争が激しいですよね。母と生き延びたんですよ。戦争の話をしたら長いんですけれども、父の実家があったところは隊長さんの宿舎にあてがわれて。というのは、自家発電があったそうです。獣医をしてたので、自家発電を持っていたので、畳の部屋、赤瓦でそれなりに裕福な暮らしをしていたらしく、そこを隊長さんの宿舎にあてがわれたものですから。母は身の回りのお世話、まあ家族ですね、みんなの世話をしていたんですけど、今日から戦争が始まるという時に、空襲で足をやられちゃうんですね、母が。姑であるおじいちゃんが、ブゥーと飛行機が那覇のほうから飛んでくるのを見て「お父さん危ない!」と言って窓のところから、こう自分で身をかわそうと引っぱった時に、プシュっとこう銃撃されて……。

翁長:戦闘機の。

上原:左の膝から20cmぐらいのところから義足でしたけれども戦後はね。民間人にも関わらずすぐ南部陸軍病院、今でも壕の跡がありますけれども、そこに運ばれて治療してもらったお陰で命拾いをしたと母はもう小さいとき何度もその話をして、で、いよいよ空襲が激しくなったのでキャベツ畑に自分は放り出されて、要するに自分で勝手に逃げなさいと言われて。一番上の哲夫という長男とおじいさんとおばあさんは哲夫を連れて避難したわけですよ。で、病弱のおばあちゃんと足の無くなってしまったうちの母と長女の栄子と言うんですけど、三人で生き延びたと。でもおばあちゃんは壕の中で亡くなってしまったんですけど、二人で生き延びたものですから母にとっては栄子という長女は本当に一緒に生きて生き延びた、戦後を生き延びたという思いがあって、ただ子供を亡くした悲しみの何倍も……。

翁長:離ればなれになって。

上原:もう、おじいちゃんたちはよそに別々に、一緒に逃げたら足手まといというわけじゃないですけど、身動き取れませんからね。だから、長堂というところで雨が降りしきる中、親子二人で逃げてずぶ濡れになっているところを米軍に捕虜にされて。その時に米軍に見つかったら何されるかわからないというのをずいぶん聞かされていたので、親子二人で泥の塗りあいをして哀れそうな格好をしてあほけた感じにして、自分たちはもうこんなに惨めなあれですよ、ということで身を守るために泥を塗りたくって、それで着ていたマントを兵隊がかけて抱き上げて捕虜にしたと。この人達、怖い人達じゃなかったという話を母から何度も聞かされて。こういう話は終戦直後、私の子供の頃はですね、何かの度に話というか話題になって、戦争がリアルでしたね。そういう意味では。どんなふうに逃げたとか、どんなふうに疎開したとこでどうだったとかですね、まるで映画を見るように映像として焼き付けられているんですよ。

翁長:でも良く覚えて、もうイメージのように。

上原:イメージが。だから掴めるというか、自分は体験してないけれども何度も子供心に聞かされることによってイメージがインプットされるというかね。だからすごくリアルですね。そういう意味ではね。子供の頃は戦争の話を良く聞かされたもんですからね、沖縄戦も何かこう遠い昔の事というよりは、自分の親が本当に身を持って経験した、親だけでなく周りの人達もですね。だからとてもリアリティのある事として私の中にありますね。

翁長:中学、高校での過ごし方は?

上原:中学高校は特別織りがうまかったとか、絵がうまかったとか将来そういう芸術系に行きたいとかいうよりは、どんな子供だったのかな……。小学校6年のときにシュバイツアーのことが「森の聖者」というタイトルで教科書に載っていて、小さい頃から音楽家になりたいぐらい音楽が大好きで、それで大きくなって医者になったこのシュバイツアーの話を読んでこんな人が世の中にいるんだ、人間ってこんな風なことが出来るんだと。アフリカに行って病気の人を救っている。なおかつ、音楽も楽しみながらというか音楽も傍らにありながらスケールの大きいことをする彼の人生に感動して、私も大きくなったら医者になろうと。中学、高校2年生までの夢はそれでしたね。だから、全然そういう文化系、文系では全然無かったです。それで那覇高の理数科に行きましたから周りはもうみんなそれを目指すような人達で、私もそれを目指したんですけど、なんか高校の2年ぐらいからなんとなく本が好きになり、なんとなく勉強からどんどん離れていって(笑)。なんで大学行くんだろう?と思ったりして、まあいろいろその間、兄(金城哲夫)が映画作りに失敗して母がそれをきっかけにうつ病になりと、まあ非常に今振り返ると過酷な家庭生活。

翁長:1961年前後ですよね。

上原:うーん。だから、ある意味中学高校の自分からしたら、もう21歳から織物に移った自分というのを想像できなかったんですよ。ものすごく、こう自分の挫折感、コンプレックス、将来に対する暗い何も先に光が見えない、自分が何やっていっていいか分からないっていう、ものすごく混沌とした個人史の中と1972年という安保の沖縄復帰という問題がものすごくリンクして、私って沖縄のこと何を分かっているのだろう?という、自分も悶々としている上に沖縄のことも何も知らないという自分がぶつかったんですよ、そこで。だから、ものすごく何か探すみたいに、あれかな?これかな?ってどうやって自分は生きていっていいのかってものすごく悶々とした時期なんです。18才から浪人してそれでもまだ落っこちて、もうしょうがなく行った学校で全然馴染めなくて、悶々として、それも何か先に進まないといけないと、この4、5年はものすごく私の人生にとって暗黒なんですよ(笑)。

翁長:東京時代、4年ぐらい玉川大にいらしてたんですか。

上原:玉川短大に行ったんですね。2年半、いや2年間行って、まあ4年制に変えようかどうしようか思っていたときに、その諸々のことを考えて、そうだ私はもう織物しようと。まあ、織物にたどり着くまでにいろいろ民藝館行って、焼き物がいいのか何がいいのか、建築にも興味あるけど、いろいろ、演劇にも興味があるし、と思って演劇のところ顔つっこんでみたり。

翁長:この2,3年は哲夫さんの影響というのはあまりなかったんですか?

上原:文学ぐらいですかね。兄が玉川から帰ってくる度に本を持って帰ってきたんですよ。赤毛のアンとかね。フランダースの犬とかね(笑)。世界文学全集とかね。まあ、その影響も少しはあったかもしれないけど本は好きでしたね。本好きな少女でしたね。でもそういう自分の中学高校の頃抱いていた自分の将来の夢と、それがままならなくなったあとの自分の折り合いの付け方に、ものすごく自分の中で葛藤があったんですね。こう挫折感と言うかね。暗い青春でした。そういう意味で。

翁長:われわれの時代はしかし、みんな暗かったですけどね。

上原:時代もそうなんですよ。時代もね、自分探しという時代より前に、社会が時代をどの方向に向いていっていいかわからない社会全体の状況があったと思いますよ。そこに沖縄の問題がものすごくリンクしてきて、世の中全体もそうだけど沖縄の問題ももっとという感じで、そこに個人史もぶつかってもうごちゃごちゃ。自分の中でどこに方向性を見出していいかわからないというときに出会ったのが織物だったんですよ。もうほんとに藁にもすがるというのはこのことかと思って。

翁長:どこの織物を見てそういう経験をしたんですか?

上原:あの、民藝館ですね。玉川に通っている頃に塚本先生という美学の先生がいらして、美学好きだったから、宗教学とか美学とか、もう授業以外にも足繁く、この課外授業みたいにしょっちゅう首つっこんでいたんですけど。その先生の紹介で「民藝館というところがあるよ」ということで、行ったら沖縄の古い織物とか、その前に一番惹かれたのは焼き物でしたね。壺屋の焼き物。それと李朝の焼き物。だから、陶芸家に本当はなりたかったのかもしれない。でも三日三晩、火をくべて、これで家庭生活できないだろうな(笑)とかね。ごく普通に生きていきたいと思っていたので。

翁長:それは何年ぐらいになります?

上原:もう20歳ごろには、もうずっと民藝館に通って、玉川に入って通い始めましたね。それで、こんな素晴らしい文化っていうのが沖縄にあったんだ、何も知らないなぁって。また、復帰運動のこともありますよね。そこでまた新宿に顔出してみたり、代々木に顔出してみたりして(笑)。どこにも所属はしないけれども、あっちに顔出しこっちに顔出し、デモに参加してみたり、高校時代の友達に引っ張られては「今度、ここで集会あるよ」とかいろいろ行って。結構熱心にそういうことを1、2年してて玉川の中ではものすごく浮いてました。浮き浮きだったんです。あんた誰?みたいな、何してるの?みたいな(笑)。だけど文化的な良さというのは玉川で学んだかなと思います。

翁長:外の世界が政治とすれば、内側に入っていったわけですよね。内面のほうに。

上原:そうねえ。内面のほうにね。その先生に紹介されて民藝館を知り、毎週のようにそこに入り浸ってましたね。今の建物とはまた違って、本当に改装前のすばらしい空間だったんですよ。そこで、細胞のひとつひとつにこの空気感を吸収するかのごとく、貪欲に一個一個のものを見、全体の空気を感じ、人が物を作っていくって何かな?人の生活ってなんだろうって、理屈でない人の豊かさって何だろうって、もうね、私たちの世代というのはアジテーターばっかりだから、言葉が空回りしてたんですよ。もうその言葉にうんざりだったの。「私、言葉いりません」って、私、貝になりたいです(笑)って。それよりも、もっとリアリティのあるものが欲しいっていうんで、織物だったんです。もう言葉の空回りにうんざりだったんですよ。

翁長:観念の言葉から物の世界に入っていったわけですか。

上原:もう、観念的。全てがね。何の実体もない、何のリアリティも無いのに言葉が先行して、しかも屁理屈こねて(笑)さも小難しい議論できますでしょう。もうそういうものいいっていう拒否反応があって。本当に手で自分で実感できる何か。だから土でもいいし、まあ素材ですよね、糸でもいいし、木でも竹でも何でも良かった。要するに具体的なもの物質で黙々と何か作っていくそういう自分を見つけたかった。その中で自分を見つけたかったというか。だからちょっと普通の織物の入り方と少し変則的かもしれませんけど、それは自分のリアリティを求める方向の先に掴んだものというのかな。 だから今でもその姿勢は一貫していて、自分にとって織物とは何かっていうとリアリティの確認なんですよ。 それは時代性もあるし今というものにどう自分が考え感じているのかと、常にリンクしているんですね。伝統の織物の技法とか、染色の技法とかは方法・テクニックですけれども、それのもっと下にあるっていうか、根底を成していること、そういう人が物を作るというのはどういう意味があるのかな、とか人が生きることとか生活をする豊かさとか、それから社会ですね、沖縄という地域性とか時代とか、それから、それを取り囲む世界ですよね。そういうものには無関心ではいられないっていうかね。

翁長:ちょうどその時期に柳先生と出会っているんですか?

上原:そうですね、それは塚本先生が紹介してくださって。運のいい事でなかなか入れない工房なんです。女子美を出ても何年か待つというくらいなかなか入れない。というのは2、3人しかとらないので、その人たちが今4、5年間いるから入れ代わりが無いわけですよね。タイミングよく入れてもらってとてもラッキーだったなあと。これもほんとに運命というか縁というか幸運だったなぁと思います。

翁長:それは何年ぐらいですか?

上原:72年。2年半先生のところで。だからずぶの素人ですよ。糸を触ったことも小さいときに見てきたわけでも、或いは志で、よし大学受験して染織の道を行こうとか、そんなの全く無しで。ただ民藝館で触発されて、自分の生きる手立てとして自分を成り立たせる手立てとして織物って決めて、そこに紹介して入ったもんですから、眼を皿のようにして先生の一挙手一投足をどんなふうにしてやるんだろうかと見ていました。だって自分に何の知識も無いから。で、この本が良いよとかこの展示会があるよとか、もう本当にさっささっさと行ってね。

翁長:かえってそれが良かったですね。

上原:スポンジのように吸収して、本を読んでみたり人の話を聞きに行ったり、先生の一言一言漏らさず聞こうとかね、先輩とまたいろいろ話したりね。

翁長:そういうの大学卒業してから。

上原:卒業して2年半、4年半ぐらい東京にいましたね。

翁長:その後、帰ってこられて大城志津子先生に。

上原:大城先生のところに。

翁長:いい先生のところについてますね。

上原:ほんとにね、私は今振り返っても、柳悦博先生と大城志津子先生、二大恩師。一生涯自分の人生の中でこの先生に巡り会った、修行させてもらったというのはほんとに宝物です。そのお二方の先生の直接「ああよ、こうよ」という教えじゃなくて、姿ですよね、生き様というか仕事に対する姿勢、考え方。そういうものが土台となって勉強させてもらって。こんな風にして人は仕事するんだなぁって背中を見るというかね。

翁長:大城先生は本当に素晴らしい先生ですよね。

上原:大城先生は素晴らしかった。柳先生もですね。すごい毒舌の先生で(笑)あれなんですけど、ものすごく素晴らしい感性を持った先生で、あの、まあ柳宗悦の甥っ子さんであられるし、自分たちはどんな家庭環境だったか、お茶の時間にぽつらぽつら話されるんですよ。へぇ、こんな環境の人なんだと。柳宗悦の奥さんの柳兼子さんの歌の話とかね。お茶の時間にはそういう話を聞きながら。で、そこにまた白州正子さんの「こうげい」というお店に悦博先生が関わっていたものですから、色んな作家や若い作家を紹介したりしてて、私は先生の反物できたらそのお店に届けて。

翁長:白州正子さんにもお会いして?

上原:白州正子さんに「沖縄のお嬢ちゃん」って言って、21歳だから可愛がられて。――結局、武相荘のことですよね。家にも遊びにいらっしゃいねなんて気軽に声をかけてもらったりしてね。都合があってお家には直接は訪ねたことはその時は無かったんですけど、まあ、先生の作品を届けたり、展示会の時には雑巾がけを手伝ったりして直接何度も白州正子さんと会ったことも、また時代のあれで、ラッキーだったなぁと。

翁長:持ち物見せて頂いたりも。

上原:はい。その「こうげい」というお店のものをね、もういろいろ。行くと棚においてあるものとか見せてもらって、それも大きな勉強だったなと思いますね。

翁長:まゆ織工房設立の前後、旦那さんが画廊作ったりとかいろいろあったと思いますけど、その辺の事情をお話いただけますか。

上原:そうですね。誠勇がその当時は雑誌「青い海」にいたのかな?私は、もう最初の子供と2番目の次女は年子でちょうど30歳のときで、せっかくあんなに強い思いで織物に取り組んだのに、朝から晩までオムツを洗いお乳をあげ、夕ご飯作ったらもう明日の朝になってる(笑)。これがずっと1年も2年も、私このまま織物やらないんじゃないかとものすごく恐怖心があって、で、住宅のトイレの片隅にガス釜をひとつ置いて、居間のほうに機を2台置いて。糸は機にかけてはあるけど、一向に進まないんですよ。年子の2歳と1歳の子供を抱えてるから。私はこのまま終わってしまうのかなっていう焦りと恐怖心と。絶望とは言わないですよ、子育ては楽しいからね。でも一種何か追い込まれた気持ちがあって、よし工房作ろうと30歳のときに思ったときは上2歳、次女は1歳。工房作るために、父親にお金貸してくれと。貸さないというから、変なことに使うお金があるんだったら私に貸してって言ったんですけど、貸さないと言いますから、まあ、もう一ヶ月毎日朝から晩まで頼み込んだらなんとか貸してくれて。そのお金と公庫に駆け込んで借りたお金でこの工房を作ったんですよね。で、作ったはいいんですけど、毎月6万円返さないといけないという返済方法をやったんですね。うん、帯2本織ったらなんとかなる、子供が寝ている間に織ればいいやと思って。お金を借りたこともなければ、こんなもの作ったこともない、何の経験のもない私がものすごくイージーな考えでやり始めた。でももう思いは強いわけですよ。とにかく今やらないと、場所さえ作ったら何とかやるだろうと。借金があったら返さないといけないからなんとか仕事もがんばってやるだろうと思ったんですけど、けれどその限度を超えてしまったんですね。だから、まあ返済額を半分に減らして、長期で返済するように切り替えはしたんですけど。工房を作るときに誠勇は「うん。やってもいい。反対はしない。でも、僕は一銭も関わらないからな。」というのが条件だったんです。「うん、いいよ。」この土地があったから、仕事場を建てるのを許可してくれた。あとは自分の責任でやりますから、ということでやったんですけど。まあ、無謀でしたね。無謀でしたけどもう一回……。

翁長:現在のね……。

上原:もう一回同じ人生だったらまた同じことしてると思います。多分せざるを得ないんですよ、自分の中で。形を作って仕事をして子供を育ててっていう、この自分の思い、もうこれ猪突猛進というか私丑年なんですけど(笑)、牛はいったん走り出したら止まらないっていうらしいですけど、日ごろはのんびりして、もう自分の尻尾でハエを追うぐらいの非常にのんびりして草を食むような感じなんですけど、いったん起き出して「よし、これやろう。」と思ったときにはもう誰が止めても(笑)自分でも自分自身を止めることが出来ないという、やりきるまではね。それが始まりでしたね、工房の。

翁長:あけずば織というのは、その後に?

上原:そうですね、東京にいる頃はやっぱり民藝館に感動したわけですから、沖縄的なもの、沖縄の文化って素晴らしいな、焼き物にしても堂々としてて、芭蕉布にしても宮古上布にしても絣にしても。いわゆる庶民の力強さだとか清々しさとか健康美っていうんですかね。都会にいてなおかつ72年のそういう時代背景もあって、もう本当にのめり込むように惚れ込んだんですよ、沖縄のあの世界に。だけど帰ってきてみると、右見ても左見ても当然ですけど沖縄なんですよ。壷屋に行ったら壷屋焼がいっぱいあるし、たまたま南風原も近かったのでいっぱいある。それから沖縄物産センターとか沖展とか全部沖縄ですよね。うーん、あれほど東京で恋焦がれた沖縄の匂い、色、形、そういう、自分があれこんなだったっけな?と、私これしたかったのかな?と思ったんですよねえ。ちょっと待てよみたいな。なんとなくちょっと違うかもと。それから、もともと柳先生ところであの素材感というのをすごく勉強させてもらったので、焼き物も好き、竹の仕事も木工の仕事もそのものが持ってる素材感が好きということがまず根底にあったということが一番大きいんですけど。もっと無地で美しいものが出来るんじゃないかとか、もっとこの今の色合いっていうのがあるんじゃないかとか、絣というものをわざわざくっつけなくても――くっつけるという言い方は良くないですね。絣と言う技法をわざわざ使わなくても、もちろんすばらしい美しい絣はいっぱいある、沢山見ましたから、もっと違う何か表し方、現れ方があるんじゃないかなっていうのを模索し始めたんですよ。工房をやりながらですね。だから、大城先生が「美智子さん、無地は仕事のうちに入らんよー。」「これだけすばらしい技法が沖縄にあるんだからひとつひとつこれやらなくちゃ。」って。私もそう思ってたし、そう思って織物を始めたんですけども……。うーん何だろう、それと同時に東京にいる頃から伝統工芸とか民芸だけが好きかっていうとそうでもなくて、当時小田急ハルクというところに北欧のデザイン家具とかいろいろ来てたんですよ。それで、まあもちろん当然東京ですからいろんな展示会あるんですよ、西洋美術もさることながら、インカの織物とかですね、ありとあらゆるもの、デザイン系もあれば、民族系もあればそういうものの刺激がいっぱいあって、もう足繁く展示会をいっぱい見てそれから演劇も沢山見て、映画も沢山見て、路上でパフォーマンスもしてた時代ですからそういうのも熱心に行って見て。たぶんいろんなものをこうスポンジのように吸収したんだと思いますね。だから、それがあって織物っていったときも確かに民芸から入ったけれども、もう自分の中ではごちゃ混ぜになってるわけですよ、現代アートも好き、彫刻も好き、映像も面白いと。写真展も見に行ったりして。だからその中で一つ言えることは人間が物をつくること、人間が表現せざるを得ない衝動とか、それと時代。そこにテクニック、各ジャンルのテクニックがありますよね。映像なら映像のテクニック。演劇なら演劇のテクニックがあるわけですよ。そういうものを考えたときに、やっぱり織物というものをもう一回解体して、糸、素材、染料、技法、時代、自分の感性、それから未来に対する自分のイメージとか、そういう風にひとつひとつばらばらにして組み立てていくということを考えて。

翁長:この時代の、還元の時代に合ってるかも知れないですね。ミニマルアートとかね要するに要素に還元していくという、ひとつそういう時代性もあったかもしれないですね。

上原:これも、無意識のうちに入ってるかもしれませんよ、だから絵画で言えば李禹煥が好きとかね、そういう風になって。彫刻でももうほんとに空間の中にぽつんと何か置いてるもの。「これが表現だ」というような時代でしたね。そういう時代の洗礼も受けてると思いますし、自分の癖というか自分の傾向、考え方の傾向みたいなのも、余分なものをそぎ落としていった先に「原点ってなあに?」みたいな、一番最初ってなあに?ていう。

翁長:そう意味ではマテリアルと言うか物そのものに帰っていくという。

上原:そうですね。そういう意味では誠勇もこういう仕事をしていますので、よく出会った時からですね、そういうディスカッションとは言いませんね、まあ話、こういう話題っていうのかな、そういうことはずっと今でもよく話していますね。だから、影響もずいぶん受けていると思いますね。沖縄で表現することの意味とか現代アートと工芸の関わりとか。だから私の中では、始まりもそういうきっかけで始まったもんですから、例えば、――美術の中でのヒエラルキーが無いんですよ。

翁長:はいはいはい。

上原:だから絵画とか彫刻が一番で、西洋絵画が一番でとかそういうものがなかなか無くて、デザインでも工芸でも自分とその仕事、自分が今やっている仕事との関わりと社会とどうか?ということでの考え方というか、それが大事と思っていますので、あまりそういうヒエラルキーを浴びてないのも良かったかなと。

翁長:そうですね。

上原:思いますね。もっと自由に発想出来るというか、これやっちゃだめとか、こんなしたら外れるとか全く無いんですよ。

翁長:そういう意味では一貫して自分の表現の幅を広げていくというか。

上原:ある意味でね。自分の最初のこだわりというのをずっと持ち続けているのかなと。もちろん変化はありますけどね。

翁長:最後になりますけど美智子さんにとって沖縄とは何ですかという質問ですが。

上原:そうね、沖縄ねぇ。まあ、先程お話したように親の戦争体験それからもちろん沖縄の歴史、いろんなことを踏まえて今の沖縄の現状も、もう60年以上も基地があるというところに生まれ育ったという自分の場所性ですよね。東京で生まれて育ったわけでもなくパリで生まれて育ったわけでも、この日本の中の沖縄、まあ、日本の中のという言い方も厳密にどうかわかりませんけど、沖縄に生まれ育ったというその自分の背景ですよね。やっぱりそれから逃げるとか声高に「こうしなきゃ」ということは無いんですけども、非常に素直に自然に自分で生まれ育った歴史性も含め現状も含め、気候風土も含めて自分の仕事を通して何か出来るかなぁということ。

沖縄とは何かって思った時に私はやっぱり沖縄の精神風土っていうんですかね、これだけ小さな島ですけれども、いろんな国と交易をしていた背景とか、長い長い抑圧の時代があったけれども生き延びる力強さもあるとか、そして非常に透明な毅然とした精神性を持っているエリアじゃないかなって思うんですよ。沖縄の文化を見るにつけですね。諸々のものを見るにつけ芸能も含め、おじいちゃんおばあちゃん達の生き方も含め、ユーモアの中に、もちろんユーモアもありますし笑いの文化も大いにあるんですけれども、そういう人間としての誇りだったり透明感だったりそれから毅然として前を向いて生きる姿だとかそういうものをすごく感じるんですよ。ものを通したり人の歴史を通して感じることはですね。

だから、私にとっての沖縄は形の無い精神風土かな。だからもし、次の世代に何か伝えたいことがあるとすれば形ではなくて、こんなにも素晴らしい人間の生きる意志っていうのかな、そういうものがこの風土の中に根付いているっていうことを伝えたいですね。

翁長:織るということはひとつの、まあもちろん物になりますけど物質ですけどそこから伝えていく精神性みたいなもの。

上原:そうですね。人間の表現物って音楽は形で時間とともに消えてゆきますけど、記憶としてすごく残りますよね。味もそうです。風もそうです。でもビジュアルアートっていうのは目にすごくあって、特に彫刻とか絵画とか織物、工芸は物として残りますよ。でも、この物としてあって、まあ、先の震災ではないですけれども必ず消えるわけですよ。突然消えるかもしれないし、すり減って消えるかもしれないしとにかくものは消える。ものは消滅していく、これは人が死ぬのと同じぐらい当たり前のこと。ただ早いか何千年かかるか一分かかるかの違いが、そう思ったときに究極のところ人と物との関係というのは記憶、映像にしても確かにその時間見てはいますけども、結局記憶だろうと思うんです。物も確かに手触りとか色がどうとかいろんなことがあると思いますけど、それもやがて消えていきますよね。だから人の一番根底に残っていくものというのは記憶なのかなって思うんです。その記憶に残るような何か仕事が出来たらいいなって思います。物ではあるんだけど。あの時あの展示会でああいう織物の空間を見たなっていうような記憶に残るような仕事が出来たらいいなぁと思いますね。

町田:それこそ、その《3デニール》っていう作品は記憶に残る作品だと思うんですけど、きっかけとしてはそういう思いからですかね。

上原:もう徐々にですね、いきなり《3デニール》にっていうよりも徐々に糸を細くしていっていつか空気のような織物が出来たらいいなぁっていう思いとか、人って結局物作ってるけどなんなんだろうなって思った時に、最後は記憶かなぁとかね。記憶のために物作ってるのかなぁ(笑)とかね。

翁長:あの軽さはそういうのがあるんですね。

上原:あのアバカノヴィッチの展示会わざわざ見に行ったんですよ。92年か3年のときに、西武で、大回顧展。見ました?

大山:見ました。その頃ちょうど東京にいました。

上原:アバカノヴィッチねえ、あの本で見ててとっても憧れの人でねえ、もう誠勇に内緒でぱっと行って来た(笑)。誠勇に言ってなかったわけ。そしたら「お前、何しに行くか?」みたいな感じで。子供も小さいのに、お金も無いのにみたいなね。もうとにかく感動はしたんですよ。ああやっぱり凄いなと。でもあの時すでに薄いのを織り始めていたの。始めたばっかりで89~90年ぐらいから織るのは薄物になってたから、その時にね、もうほんとにいろいろ考えた。その時その場でも感動して考えたんだけど、帰ってきてずっと悶々と考えて。あれは西洋人の仕事だよなぁと思って。ものすごくスケールがあって存在感あって実存そのものっていうの。

翁長:この物質というのは?

上原:物質性がすごかった。

翁長:じゃない方向に行ったわけだ。

上原:あれ見て、私は違う方向だなとはっきり思ったの、アバカノヴィッチを見て、私は。もちろん始めてはいたんだけど、まだ憧れがいっぱいあって、これいつか私もこんなスケールのあるもの織れたらいいなとか思っていろいろ見てたの。最後はみんな木になったりいろいろ違う素材使って彫刻のほうにいってますけど、織物に関してはアバカシリーズだったかな?アバカンか。あれを、アバカノヴィッチを見てそこで止めを刺したというか、「ああ、消えていくものに自分は賭けようと」というか。

町田:先程からお話の中で物質っていうわりには、手がけている作品の儚さみたいなものが凄く印象的にあって、その違いがお聞きしたかったです。

上原:そうですか。あとで《3デニール》見てください(笑)。そう、だから私にとっては自然の流れなんですよ。工芸っていう、使うっていうねえ。特に沖縄で織物をしても伝統工芸とかもちろんそういうとこから魅力を感じて入ったけども、なんていうのかな、行き着くべき、たどり着くべくしてたどり着いたというか、行く方向に向かって自然にそこに行ったという事ですかね、この《3デニール》というのは。意識的にとか物凄くこれを目標に、《3デニール》を目標にいつか織るぞとかそういうのではなくて、徐々に変化して糸細くしていって、空気のような織物をっていうのから徐々に……。存在、不在の存在というのかな。限りなく見えないけれども物凄くはっきりあるという。まだ、《3デニール》は物としてあるんですけどもっといえば映像みたいな音楽みたいな限りなくそこには物は見えないんだけど、でも物凄く強くあるという、それは音だったり一瞬の映像だったり光だったりするかもしれませんけど。

翁長:記憶の存在みたいなもの。

上原:うん、そうですね。記憶の存在みたいなもんですよね。不在の存在みたいな感じで、見えないからこそ見えるみたいな。見えないからこそ見えることを促すというかね、このぎりぎりのもので。沢山のものを促すというか、深いものを促すというか。まあ、そうなるかは別ですよ。見る人の問題ですから。ただ作る時の自分のものはこっち置いといて、人のものを見る時もね、この作品は何か、彫刻でも映像でもなんでも、舞踏でもなんでもいいんですけど、見る時にすぐ本質的なことは何だろうと思って見る、いつも見てるわけですよ。だから舞踏も好きですよ。

翁長:あの時期、じゃあ状況劇場とか寺山修司なんか見に行ったり。

上原:うんうん。

翁長:もう凄かったですからね。

上原:赤テン、黒テンねえ。あって。映画も見たりして。

翁長:ATGとか。

上原:でも、私の体質とは合わなかった。あまりにもエログロナンセンスじゃないけど、物凄く混沌としててね、ちょっと私の神経についていくのは、ちょっとあの時代のものはね、ついて行きづらかった。だから今のほうがまだしっくりくるかな。今の時代の若い人の作品のほうがまだ重くないというか。自分にはヘヴィーすぎるわけですよあれが(笑)。

翁長:反近代的なね、部分を噴出してたからね。

上原:もう、もう、ちょっと味クーターすぎるというかね。私の感性というか資質、それぞれ資質がありますよね。いいと思っても、これ凄いと思ってもじゃあこれがとても同調するかって言うとまた違うっていうか。

翁長:最後は好みになって行くというか。

上原:最後は好みになっちゃうからね。自分の力量もあるし。体質もあるし。嗜好もあるし、何が好きって言うのもあるからね。なかなか寺山修司はついていけなかった(笑)。まあ、でもやればやるほど自分の仕事がシンプルになっていって、非常に今はいい状態ですね。やりたいことがはっきりしてるから。これとこれをやりたい、ともうはっきりしてる。長く続けて良かったなあと思って。40年以上になりますけど。

翁長:そんなになるんですか。復帰40年といっしょですね。ほんとに。

上原:40年以上になりました。40年越しましたね、仕事して。あと20年ぐらいやったらちょっとは「うん」と納得するものできるかなと思って(笑)。80まで頑張りたいなって思って。

翁長:90(歳)ぐらいまで大丈夫じゃないですか。

上原:喜如嘉のおばあさんたち90ぐらいまでなので、目標(笑)。

翁長:前、八重山に行ったときに、地機(じばた)織りで92(歳)のおばあさんが、床を(くるぶしで)これぐらいすり減ってやってました。

上原:くるぶしで……。ああいうの見ると感動しますよね。

翁長:感動しますね。

上原:うん、私ね何故かそういうのに感動するんですよ。やっぱり黙々と人が生きる営みっていうのかな。だから職人仕事っていうのは凄く尊敬してるんですよ。意識や知識だけが上位にあるという価値観ていうのかな、そういうのじゃなくて人がやっぱり黙々と生きていく仕事を成していくってことの美しさっていうか、説得力というかリアリティというかね。やっぱり納得しますよね。凄いなぁと。

翁長:ありがとうございました。

アーカイヴ

粟国久直
稲嶺成祚
新垣吉紀
上原美智子
大城カズ
久場とよ
阪田清子
高良憲義
照屋勇賢
永山信春
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山元文子
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