OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT

与那覇大智

与那覇大智(1967年~)
沖縄県沖縄市生まれ。沖縄県立芸術大学卒業後、筑波大学大学院修了。ホルベインスカラシップ奨学生。文化庁新進芸術家海外留学研修生としてフィラデルフィアで学ぶ。茨城県筑波市在住。学生時代からグループ展などに積極的に参加。初期は父親の与那覇朝大の影響が大きかったが、その後独自の画風を築く。この世代では数少ない絵画を制作し続ける美術家である。この十数年近くは、素材の色彩が光に変わる、イリュージョニスティックな変容に焦点を合わせている。

インタヴュー

収録日:2013年6月7日
収録場所:アトリエ(茨城県つくば市)
聞き手:町田恵美、中島アリサ、仲嶺絵里奈 撮影:大山健治
書き起こし:町田恵美

町田:大智さん、改めまして、今日はよろしくお願いします。早速ご出身なんですけど、中部の方ですか?

与那覇:はい。ざっくりいうとコザですけど、沖縄市の諸見里という中城との境ぐらいのところ、いわゆるコザというところでイメージされる繁華街、歓楽街の近辺ではないところです。

町田:そこ出身で、ずっとそちらですか?

与那覇:生まれた時から小学校卒業までそこにいて、卒業した後に宜野湾市の大山に移りました。

町田:で、大山は中学校、高校。

与那覇:大学まで。

町田:中城の方って景色どんな感じでしたっけ。あまり行く機会が無いので。

与那覇:生まれたところの? 当時からそこは比較的住宅地だったんですけど、空き地が多くて。母親の話によると、さらにその前は田んぼばっかりだったという話です。まあ田舎、都市化が進んでる最中という感じだった。今はもうびっちり住宅が詰まってるっていう状態になってるんですけど、僕らの頃にはまだ空き地が沢山あってそこで遊べたんですね。遅くまで遊んでました。

町田:宜野湾に移って、見えるものって変わって(くる)?

与那覇:コザにいた時は海の近くじゃなかったんで、海は見えなかったんですけど、中学になって宜野湾に移って、通った学校が中学高校と新設校だったんですよ。新設校が建った場所が旧キャンプ・マーシーってところかな、宜野湾市の真志喜にあたるところ。今も真志喜ですけど。そこの当時病院とかがあったって聞いているんですけど、軍の施設があった場所の返還された土地に最初に建った建物が中学校。おそらくその次くらいで高校みたいな感じでした。58号線から海に向かってくとそれがあるんだけど、キャンプ・マーシーが。そこは中学に通ってた時から高校に通ってる時くらいまで、高校の時にはだいぶ開発進んだかな。58号線からそこへ入っていくと海まで何もない。ススキが生えてるくらい。モクマオウがちょんちょんちょんと生えてるくらい。道が一本。そこそこに舗装されて道が一本、中学校に向かってずっと続いて。脇道に入るとススキの野っぱらになる。そこを毎日毎日、大山の自宅から通うわけですよ。そうすると小学校の時は家の間を縫って小学校に行ってたんだけど、中学校から高校にかけては58号線のところを渡って、学校に向かって行くと野っぱらしかなくて。その向こう側に中学校があって、その背後にはいきなり海で水平線が見えるという感じでしたね。それが多分中学3年間丸々そんな感じで。高校に入ってからも開発は進み始めましたけど、パラパラパラという。ちょうど僕がいたときにコンベンション・センターをつくってた。変な花笠みたいなやつってみんなで言いながら、建設してるのを見た覚えがあります。その当時は、宜野湾高校のグランドはフェンスの向こう側は確かほぼ海だったと思います。だからサッカーボールとか野球ボールが海に落ちるとかありました。今はそっから先もずーっと埋め立てられてるので街の中にある学校になっちゃいましたけど、かつての中学校、高校は縁。海端にあるという。幹線道路からそこまでは何も無い野っぱらだった。それが大きな違いですね。なので見えてるものはだいぶ違って見えました。

町田:それリアルタイムで見てた感じですね。

与那覇:そうですね、毎日毎日ですよね。家に帰ってくると普通に住宅地なんですけど。学校に行く時の行き帰りは野っぱらを歩いて帰るという。荒涼としているという印象がありましたね。特に思いがあるという感じは当時はしなかったですけど、毎日毎日見ていたので、原風景の一つではあるだろうなぁと思います。

町田:以前雑誌の取材か何かで、地元の場所で話をするという記事を見たことがあります。

与那覇:あー、はい。あれは美術手帖という雑誌でシリーズで作家を取り上げる中で僕が取材されたんですけども、思い出の場所を一つということで、僕の思い出の場所として森川公園という宜野湾の真志喜、うちの近所だったんですけども、そこに羽衣伝説の泉があるんですよ。後に王様になる人の産みの親の話の中に羽衣伝説が組み込まれていて、森の川で天女が水浴びをしてて、羽衣がかけてあると、それを見た村の誰それが羽衣を奪って天女は帰れないんですよ。羽衣着てないと。「返して下さい」「返して欲しかったら一緒になろう」みたいな(笑)、すごい話なんだけど結婚するわけですよ。その夫婦から生まれた子が何とか王っていう王様になるお話なんですが、あちこちにある羽衣伝説のひとつだと思うんだけど、そこから泉は下の方にあるんだけど、斜面をずーっと登ってって丘のてっぺんまで行くとさっき言った真喜志中学、宜野湾高校を含んだ旧キャンプ・マーシーのだだっ広い敷地、左側の方に移ると沖縄電力、牧港の発電所の煙突があって、さらに向こうに慶良間列島が見えて、そこに夕日が落ちてくんですよ。それをよく見てましたね。というその記憶がとっても鮮明で、かつあそこだけは今も変わらない。さっき言った野っぱらというのはもはや無い。まったく無いので、こんなぎっちぎちに建物が建つものかと思うくらい、建物が建ってますけど。押しなべて僕の原風景っていうのは大方変わってますね、生まれたところも、育ったところも。実際、父と住んでたところも無いですし。変わらないところ、思い出が残ってるところはとりあえずそこかな、ということで取材してもらった覚えがあります。そこの公園は丘があってその向こう側は普天間基地になってる。

町田:鮮明に覚えているっておっしゃったじゃないですか。それはずっと見ていたから鮮明に記憶されてるのか、何か印象に残る出来事があったから覚えているんですかね。

与那覇:多分、多感な時期じゃないですか。中学の記憶、僕あまり無いんですよね。ほんとにちょっといじめられたとか。あと仲のいい友達とトイレ掃除をやったとか(笑)。あと何があったっけ……。服装のことで生徒が授業ボイコットしたとか。日常的なところは思い出せないんですよね、ただ覚えてるのは野っぱらを歩いて学校に行ったという。高校のことはわりかし覚えているかなと。そこで感じたり思ったりしたことと、通学のときの野っぱらってのが繋がっているだろうし、森川公園からみえる夕日も覚えているというのはそういう気持ちを背負って見ていただろうなって思いますね。

町田:私が思い出とか記憶に残るものとして風景だったりを鮮明にっていうのがあんまりないというか、聞かれた時に答えられないのを記憶していることや見えているものが違うのかなとちょっと疑問に思ったんですね。

与那覇:僕の場合、人より風景の方が多いかもしれないですね。人で覚えているのは小学校の時に遅くまで、5時過ぎまで遊んでいると祖母が父方の祖母ですけど、迎えに来るわけですよ。向かえに来るって言っても広場の隣は家なんですけど。来るときには間違いなく婆さんは怒ってるんですよ。怒ってるので彼女の姿が見えるとちょっと震え上がるっていう思い出があって。鮮明に覚えているのは祖母について迎えに来て怒ってる。そんな感じが覚えてます。もちろん優しかったんですけど、記憶に残っているのはそういう感じなんですが。残りは人について明確には、もちろんまわりのみんなはいい人達ばかりでしたけども(笑)。

町田:というよりも風景に執着というか関心を無意識のうちに持っていたのかなと。

与那覇:そうですね、結局、今に至るまで自分が描いてる絵が風景だと思っているので。スタイルはいろいろ変わりましたけど。自分の中ではっきりこうではないと言えるのは自分は人物についてはそれほど興味が無い。人物というより人物画。とにかく風景にはすっと入っていく感じはありますね。

町田:学生時代に戻るんですけど、中学高校は部活とかはされてました?

与那覇:帰宅部でした(笑)。しいて言えば、生徒会入ってたかな。半ばやらされるわけですよ。真面目なやつとか。あと、やれって言えばやる奴がやらされるんですよ。それで一、二年くらいはやってました。特に部活はやってなかったですね。

町田:中学高校、美術部はなかったんですか?あってもそこには所属してなかった?

与那覇:あったかどうか明確に覚えて無いのと、あったとしてまず入らないでしょうね。実際、授業で選択科目があったりするじゃないですか。書道、美術、音楽かな、迷わず音楽を選びましたから。音楽は好きだったんですよ。音楽の授業も好きだったのかな、それは小学校の頃から好きでしたね。それははっきり。美術に関しては端的に興味がなかったんです。

中島:いつ頃から興味を持ったんですか?

与那覇:当時ははっきり覚えて無いですが、高校二年くらいかなと記憶してます。何がきっかけで描いたか覚えて無いんですけど、描いたら面白いなと思って、ちょこちょこ描くようになった。当初はイラストみたいなものだったと思うんですけど。それで興味が出てきて、そこから大学に入るまでにどういうふうに自分の気持ちが変化していって、――もともと僕はどっちかっていうと国語の方が得意だったんで、どっちが得意と言われたら。その当時、父のところにはいろんな方がいらっしゃったんですけど、その中でも新聞記者の方がよくいらしてて、その人達の話しや考えていることが面白かったりして、こんな風になれたらいいなという漠然とした憧れがあって、多分意志としてではなく、こうなるんだろうなという身勝手なイメージですけど、多分自分は新聞記者になるんじゃないかっていう気持ちがあって。だったら大学もそれ相応のところに入らなきゃいけないのかなって思ったりしてました。それが高二から高三、受験のところにいくまでに変わっていったんですけど、そのプロセスはちょっとよく分からないですね。

町田:お父様(与那覇朝大)と一緒に暮らしてたということで、お父様が画家で環境として美術は身近にあったと思うんですけど、興味が無かったと言い切れるのは不思議な感じがするんですが。

与那覇:多分、完全にほって置かれたら特に興味が無いって意識的に感じることもなかったと思うんですよ。いろんなお客さんが来ると、「将来何になりたいの?やっぱり絵描きさんになるの?」と聞く。そうすると適当に言葉を濁したり。あと父は陶芸もやっていたので、陶芸の手伝いさせられるわけですね、休みの日とかは。絵が描けないっていうのは小学校の時から、明白に苦手だったんで。描けないと分かりますよね。下手って自分でも。描いてても、進めば進むほど絵がだんだん駄目になっていくんで面白くないなと。絵はとにかく描けないという思いがあったので陶芸の方は父の手伝いをしてると。そうすると方便としてだったと思いますが「何になりたいの?」って聞かれたら、「陶芸家かな」と答えてました。お父さんの跡を継ぐのねみたいな。言わされてたわけではないけど、自分が無理して言葉を出すというのは何がしかのわだかまりが生じるから、その時に繰り返し繰り返し、美術に興味無いわと思う訳ですよ。その確認をしてたって感じですよね。それが高校二年くらいの時かな。今から振り返って、多分これが原因だろうっていうのは、おそらく自分が初恋をしたからだろうと思います。多分中学校、高校のときに初めて本気で人を好きになったんですけど、その時に風景の見え方が変わったってのは何となく記憶してます。恋愛感情込みであるので、片思いでもあるので風景は基本切なく見えるんですけど、切なさを助長するのは景色なわけですよ。何も無いし、夕日は沈むし(笑)。ということだったんだろうな、いま思い起こすと繋がるのはそこなんです。なのでそういう感情と共に絵の方に入っていく。絵の方に入っていく時に風景を絵に描くと、紙とかキャンパスとか向こう側に視線だけが飛ばせる。触れればこれは紙であり、キャンパスであるんだけども、眼差しだけは遠くの野っぱらを描く、海を描く、水平線を描く。遠くに雲が在って夕日が落ちる。そこまで視線だけは飛ぶんです。描いていくとどんどん飛ぶルートができるんですよ。航路のように。その感覚ってのはすごく心地よくって。おそらくそれでのめり込んでいったんじゃないかなと思いますね。人物だとそうならないじゃないですか。人物にあたって見返してくるっていう部分があったり、或いは人物という存在自体に眼差しがひっつくみたいなとこがあるんで、それほど眼差しが自由に遊べないんだけど、風景の場合には自分の好き勝手に絵という世界の中で飛べるので。そういうのがまっ白い紙に描いていって色を薄く薄く塗っていった時にそういうのが出現していく様というのが僕にとっては驚きで。おそらく絵画に目覚めたっていうのは多分その瞬間なんだろうと思います。当時、野っぱらを見ていた時の自分の視線っていうのは遠くへ遠くへものを見ようとしていて、またそれをさせてくれるんですよね、風景が。おそらくこれがコザの住宅地だったら遠くへ飛ばないでしょう。別の感覚、場合によっては絵に興味を持ったかどうかというのも分からないですよね。仮にそこにずっと住んでいたら、住宅地に住んでて同じように初恋をして。で、絵に興味を持つかっていうとそれは分からないですね。かなり原風景と繋がってるところがあるので。そんな感じですかね、いまから思えばですけど。

町田:感情を受入れる先として風景があって、表現する手段として絵を描くことを始める、楽しさに気付いた?

与那覇:絵を描くこと自体はなぜ描くようになったか明確に覚えて無いんですよ。だけど、やってみたらそういうものが見えてきて徐々にそこに入り込んでいく。そうこうしているうちに進路を決めないといけない時期にきて、どうしようかなということを悩んで、いま興味があるのがたまたまそっちにいっちゃってたから、じゃあ受験してみようかな。たまたまその時に沖縄芸大(沖縄県立芸術大学)が出来たんですよね。うまいことに。だから受けた、そしたら受かった、だから入学しましたっていう話です(笑)。だから非常に動機が薄弱ですよ。いろんな作家がいるけど、例えば阪田清子さんみたいに一回社会人になって、そこからアーティストになろうと思って学び直すときには「アーティストになろう」と思うという動機づけが先にあって学校に来るんだけど、僕みたいな人間は動機づけ無くシチュエーションの流れの中でそういうとこにいてたまたま入ったと。入ったら手が動かないから苦労するということはありましたね。

仲嶺:一期生は当時、先生はどなたがいらっしゃったんですか。

与那覇:油画の方は、宮俊彦先生が最初に赴任された先生で。岡山の出身の方なのかな。キリスト者ではないんですけど、聖書を題材にした作品をつくる人。わりとクラシカルな絵を描く人なんですよ。その人と与儀達治先生とルイ・フランセン。壁画及びモザイク、ステンドグラスをつくる工房を持ってる方が先生になりました。あと助手で知花均さん。日本画が西村立子先生と平山秀樹先生と香川(亮)さん。一年間くらいの間で人員が揃いました。助手の人は後から入ったんですけど。一年生の後期くらいに。漏れてないかな(笑)。

仲嶺:当時は誰に習おうとか具体的にあったんですか。指導してくれた先生とか。

与那覇:基本、集団指導みたいな感じだったので、いろんな先生が来て見てくれてたんですけど、卒業制作の頃になったら四年生になったら担当教官みたいなものがついて、それは僕らが選ぶんじゃなくて割り振られるようなかたちだった気がするんですよ。はっきり覚えて無いですけど。その時にあたったのは誰でしたっけ。あんまり曖昧なことは言えないので。なんで曖昧かっていうと指導教官っていうのは基本的に油画は油画、日本画は日本画なんですけど、僕がその当時学校で一番影響を受けたのは日本画の平山先生なんですよ。これははっきりしてます。アドバイスも、もちろんしてくれて。僕と十歳、一回り変わるかな。僕らが学生の時、30代頭だった気がするので。今もそうですけどバリバリ描くし。当時一期生っていうのは、わりとのんびりしてて、のどかだったんですよ、学校生活が。学生よりも教官の方が多いんじゃないっていうくらいだから、学生65人でスタートだからあといないですからね。事務員まで入れたら絶対そっちの方がでかいだろみたいになるし、かつ教官の方たちも新入生だから手探りでやってると。結構よく飲んでたんですけども、飲み会の席には当り前のように先生方もズラっといるという状態でした。楽しかったですが、ぼんやりしてましたね、なんとなく。二年生くらいまではぼんやりしてたかな、僕自身は描けなかったんで。デッサン力が無かったんで。そのコンプレックスはもの凄くあったから、わりと頑張ろうという気はあったんだけど、それでもそんなに二年生まではガリガリ学んでやるって感じではなかったし、絵の方もとにかく描けないっていう方が大きくてですね、描くよりも見る方が好きっていう感じでした。人の仕事を見るのも好きで、平山先生の方に行くと大抵絵を描いているんですよ。見せてもらったりとか。(学校に)居たら来てもらって絵の批評してもらったりとか、ていうことをやって頂いてましたね。一番助言を乞うたのは平山先生でしたし、授業が終わってアトリエからみんな帰ると、研究室の右端が平山先生だったんですけど、そこは常に(灯りが)ついてたんですよ。学生が帰る時についてるってのはずっと描いてるんですよ。その灯りを見ながら、絵描きってのはそんなふうにして仕事をするんだなって思った覚えがあります。

中島:お父様と暮らしている時には絵描きっていうのはこういう仕事をするんだなっていう感情はなかったんですか。

与那覇:これがね、端的に言って、無いって言ってもいいくらいじゃないですかね。それ言うと草葉の陰から怒りだしそうですけど(笑)。一緒に暮らしてた時に、父のことを自分が目指すべき、或いは自分がこれから同じことをやっていく芸術家であるというふうな感じになかなか思えなかった。それは一番大きな理由は自分がそうなれるわけ無いだろうと思ってたんですよね。とてもじゃないけど、こんな絵じゃどうしようもないだろうという。比較対象として父の絵があるのかもしれないけど、あんなに描けるわけないというふうに思ってたし、その点で初っ端から距離があると思ってたのと、あと中学校の頃から一緒にいたんですけど、父の画室っていうのはドアで閉じられたわけではなくて家に帰ってドア開けると、そこ画室なんですよ。アトリエ空間で。アトリエ空間の中の手前にテーブルがあって、そこが応接間になってるという感じで繋がってるんですよ。帰ってきてドアを開けて入ると、右側に、ばかでかい鏡が在って、150cm×2mくらいの。左側の奥の方に父が使ってるイーゼルが在る。そこで父親は描いてる。絵を描いてる時はそこにいるわけですよ。時々振り向くんですよ。振り向くのはなんでかというと鏡を見る。鏡を見ると、父が自分が座ってるとこの丸ごとの景色が鏡に映ってるのでどうなるかというと、2倍の距離で遠くから見ることになる。自分の描いてる絵をすっごく引いたところから見る。そういう設えをしてたんですよ。制作のためですよ。この制作のための空間の中に応接間があってそこにお客さんが来るという、そんな感じだったんですよ。だから言ってみれば、毎日父の職場に帰る感じなんですけど。父の場合にはそれで飯を食っていた画家なのでそれが仕事なんですよね。だから毎日やってます。仕事してるって感覚なんですよ、僕にとっては。絵を描いて、まあ確かにそうなんだけど、それ以前に父は仕事をしていると。父の仕事なんだという気持ちが強くて、自分と繋げるところにはなかなか行かなかったですね。おそらくもう一つは父親と息子の関係ってのは、わりとフレンドリーなとこもあるでしょうけど、必ずしもフレンドリーではなかったので。直前まで別々に暮らしてたから。12歳までほぼ会わなくて、月に一ぺんとか週に一ぺん家に来るおじさんっていう感じで会ってて、怖いなと思いながら。卒業したら12歳になっていきなり一緒に住むようになって。怖い訳ですよ、怒りっぽいしね。ということもあって距離を縮める、間合いを測るのが大変苦労したような気がするんですよ。後から考えると父親も父親としてどう接したらいいのか悩んでただろうなって今にしたら思います。

仲嶺:率直にお父さんの絵を見て、何か感じることってあります?高校の時に自分が絵をやろうと思った時に、そこにはお父さんの絵があるわけですよね。

与那覇:多分ちょっと矛盾するかもしれないですけど、あまりに身近すぎるせいもあって、出会いがあって感動するっていう感じではなかったような気がするんですよ。例えば平山先生とか、あとそこから先いろんな画家に僕は影響を受けましたけども、絵と出会う局面ってのがあるんですよ。実物で出会う時もあるし、画集で出会う時もあるんだけど。いずれにしても初対面ということがある。絵に興味が無かった時から、絵に興味を持ち始めて大学に進むっていうこのプロセスの中で、最初っから絵の空間の中にいちゃったんですよね。ドア開けて中入るとアトリエで、貝殻のコレクションとか、自分の親父の絵とか掛かってる。ドア開けて、真ん前にある絵が《廃墟》っていう(沖縄)県立美術館に収められている絵なんですよ。石垣があって、ヤドカリもいる。毎日見てるんですよ。影響を受けたのは間違いないと思うんですけど、感動したっていうふうな感じではないですよね。おそらくは、あの当時の学生のときの絵は父の影響を受けてると思うので、ある種の影響ってのは入ってるんだけど、その影響ってのは自分で取りに行った影響ではないんですよね。自分で取りに行ったのは覚えているんだけれども、取りに行ってないのは覚えてないんですよ。それは多分、父親と子供だからという繋がりではなくて、絵に興味を持つ前からもうすでにあって、絵に興味を持ってからもあって、僕の感情の変化とは関係なくその絵はずっと僕を取り囲んでたっていうことがあり、だからもしかしたら絵画っていうものの根本的なところというか、基礎的なものというのが裏口から入ってきたんじゃないかなっていう。表玄関だったら自分でドアを開けるんですけども勝手口から入ってくると多分分からないのかな。多分勝手口から入ってきたんだと思う。忍び寄るような感じで。なので絵に興味持つ前から既に入ってきてたかもしれないので、だから明確に父の影響っていうのを意識したのは筑波に来て、しかもだいぶ経ってからです。もっと言うと、父が倒れてから。さらに明確化したのが亡くなってからです。向き合い方っていろいろあるんだな、ってこの何年間で思ったんですけど。一緒に暮らしてる時の向き合い方、離れてからの向き合い方、片っぽが病を得てからの付き合い方、病を得てから父は話すことができなかったので、コミュニケーションとか非常に限られてたんです。そうなってからの向き合い方。もはや彼は絵が描けない、という状態の中での向き合い方。そして、亡くなって、もはや会えない。目の前には存在しない。だけど画家という記憶、作品が残っていると。だから美術館に行くと見れたりするわけですよね。というところで向き合う向き合い方。違うよなって思いますし、親子なので、親と子、男同志、あと同じ画家というふうなところがあるんですけど、画家としての側面に向き合おうとした時の想いは亡くなってからの方が格段に強くなってますね。

仲嶺:逆にお父さんから絵を批評されたりとか、絵について何か言われたりはあったんですか?

与那覇:学生になりたての頃、受験生の頃、芸大に受験するにはデッサンが描けないといけない。父のところに石膏像があるわけですよ。それでそれを描き始めたらここはこう、とかって教えるんですけど、入学してしばらくしてからは、大学の先生に任せるという気持ちがあったのか、それほど口出しはしなくなりましたよ。

町田:この間、話をしてたときに、自画像をお描きになって、鏡に映っているご自身を描いているものに赤を加えるタイミングで、お父様からアドバイスを頂いたような話をしていた気がするんですけど。ご自身が上半身裸かな?鏡に映ってる。

与那覇:80号くらいの絵で、自分が大きめのパレットを持って、上半身裸で、鏡を見ながらここにあるキャンパスに向かって絵を描いているっていう状態を、いろんな合わせ鏡とか使って描いた絵があって。そのときにはわりと明確にベラスケスの絵を意識しながら描いたんですよ、空間構成は若干違いますけど。一人しかいないし。だけども鏡と実像とか、部屋があってさらにその奥とか。二間繋がりの部屋だったんで。そういったものとか。というところで意識しながら描いてたんですけども。パレットに赤い絵の具だけがざくっとこう置かれてたような感じなんですよね。それは視覚的な効果を狙って。それについてのアドバイスを彼はしてくれたと思います。パレットも、もっと赤い方がいいと。くすんだ茶色ではなくもっとビビットなものがいいというふうに言われたような気がします。あとタイトルを付けるときになって、父はこれは「赤いパレット」にした方がいいと。要するに一番際立つのがそこなんで。僕の場合には自分の興味ってのが鏡に映るということにあったので「鏡」っていうふうにつけたいなって。結果的には「鏡」っていうタイトルにしたんですね。そのときのやりとりはなんとなく覚えてます。あとは肖像画を一度だけ頼まれて描いたことがあって、酒造会社の会長さんか何かで、お亡くなりになったあと、写真をもとに描いたんですけども。一応僕が注文を受けて描くと。そうすると父親が時々来るんですよ。アドバイスをしたりするんですけど。見かねたんでしょうね、手を入れるんですよ。手を入れると、綺麗なんだけど元の写真とだいぶ違うんですよね、というように見える。うーん、と思って。またしばらく僕が描くじゃないですか、また変わるわけですよ。そうするとまた親父が来るんですよ。また親父が手入れるわけですよ。そうするとまたきれいになる。結構その繰り返しをして最終的に絵は父親の手が数パーセントぐらい入り、その上に自分の手が入り、というふうな形で肖像画が出来上がったんですけども、そのプロセスの中で彼にとっての肖像画ってのは、似せるだけじゃなくて、それを見た人、注文した人が喜ぶ絵を描かなきゃいけないんだな。そのためには写真には写ってるかもしれない、或いはリアルな人としては見えてるかもしれない、様々なノイズというか、皺だったり弛みだったり、ていうものは補正していくっていうことをしないといけないのかなぁと思ったときに、父がかつて米軍の将校とかを相手に肖像画を描いてたときのエピソードをいくつか聞いた時の一つが浮かんだんですよ。似せてるだけじゃだめなんだそうですよ、綺麗に描かなくちゃいけないらしくて。似てるだけの絵はつっ返される。一番彼が屈辱的だったのは絵を投げつけられたことがあるらしくて。それが非常に悔しかったっていうのを言ってた覚えがあるんですね。それを聞いてたりしてたんで、彼にとっての肖像画ってのはそういうものなんだと。似せるってのは最低条件であって、プラス、注文してくれた人、描かれた当人が喜んでくれるかどうか。逆にいうとその描かれた人がもしかしたらこの部分をコンプレックス持ってるかもしれないなっていう気になる部分ってのはこちらが察して消してあげるとか、というふうなことを彼は覚えていたんでしょうね。なので僕が描く、写真の通りに描く、直すときにある種の美しくない部分っていうものを消したり戻したりするのが彼にとっての肖像画なんだろうなってのは、アドバイスを受けながら思いましたね。そういったところが父から絵についてアドバイスを頂いたことなんですが。そっから後、卒業してから後は言われてないです。特にこんな感じの絵になってからは、何も言わなくなりましたね。

町田:お父様の制作スタンスはそうとして、卒業後ではなく在学中に作風ってのはどんな感じだったんですか。

与那覇:僕のですか?完全な具象絵画で、課題があるので人物も描きますけども自由課題の時はたいてい風景画を描いてましたね。題材的にはどうだったか自分も定かではないんですけど、色彩とか構図の取り方とか、色とかは確実に父親の影響を受けてたと思います。それは大学を卒業するぐらいまでは多分続いてたと思います。こちらに来てからだいぶ冒険的なことをするようになって。周りにそういう人達がいたので、同期で。彼らに影響されてそういう実験的なことをするようになったんですけど。それまでは僕は抽象絵画っていうもの自体が全く理解できなかったんで、学生の頃。沖縄の学部の頃は。抽象画って何だろう?全く見方が分からない。こちらに来てから周りでそういうのをやる人がいて見よう見まねで見たら、こういう面白さがあるのか。いろんな絵をここで見るようになって少しずつ抽象絵画を見る目ってのが養われて、自分もそちらの方に動いていくっていうことがあったんですけど。その頃からは多分少なくとも表面的には父との共通項は見えなくなったかなと思います。

仲嶺:沖縄の芸大に、行くようになった時に、お父さん以外に絵を描く人との接触が盛んになってくると思いますが、同期だったりそういった仲間が出来ると思うんです。例えば卒業してから『美(ちゅら)展』とかグループ展をずっとやってますけど、学生の頃に絵のことについて語り合ったり、そういう意味で何か同じような感覚を共有するような仲間だったり、『美(ちゅら)展』のメンバーの人達っていうのは学部の頃からそういう付き合いをしていたから繋がっている話なんですか。

与那覇:『美(ちゅら)展』のメンバーは入れ替わりもありましたけど、91年が最初、95年まで続きましたかね。多分初っ端の頃、半数くらいは沖縄芸大を卒業した人だったんじゃないかなというふうに思います。ジャンル様々だったんですよ、染織の人もいたし、彫刻もいたし、絵画もいたということなので。まあ、同期ということで繋がっているってこともあったので。ただ、作品のことについてはいくらか話をした覚えもあります。あまりにも違うこともあったので直接的な比較も難しかったんですけど、絵のことについてはよく話してた気がします。ただ議論するって感じではなかったですね。とにかく東京出てきて、制作を続ける同士のような感じだろうと思います。

仲嶺:卒業して、筑波大学に入学することになるわけですけど。そのきっかけというのはありますか?どうして筑波に。

与那覇:筑波大学は一度、学部に学群っていうのかな。一度受験してるんですよ。受験のために一度来てたことがある、推薦入学か何かで。その時落ちたんですよ。ということで来たことがある記憶があるというのと、あと先生にどういう大学だったら拾ってくれますかね、と聞いたことがあると思うんですけど。外部から入れるのかどうかっていう。そしたら、平山先生は筑波大学の日本画の方に、友達というか友人の方がいらっしゃって、ある程度僕のことを知ってたんですよね。筑波大だったら、ある割合で外部からも受け入れているみたいだよ、ということで受けたのが最初です。ただストレートでは受かんなくて、僕は結局、その翌年に入ることになったんですけど。で、最初に落ちた時に沖縄で受験勉強するという手もあったんですけど、僕、もうどちらかというと沖縄を離れたいという気持ちが強かったのと、次受験するんだったらここの学部の聴講生か研究生に入っておいた方がいいよ、と周りから言われたので、そうかと思って、浪人の時からこちらに住むようになりました。

仲嶺:沖縄を離れたかったという心境というのは?

与那覇:えーっとですね、まぁはっきりしているのは父の下を離れたかった、というのがありましたね。ある種の息苦しさを感じてたというのがあったと思います。それが大きいのかな。もう一つは後付けという気がするんだけど、後付けですね。結果的にそれで良かったという局面があって、沖縄にいると、うーんと、ある種の緊張感がない、ということをこちらに来て感じるようになりましたから。その点では後付けの理由ではありますけども、沖縄を離れて、ある意味自分の出自とか、小学校、中学校、高校、大学みたいな青年期のことを全く無しにして、今、そしてこれからだけの付き合いという中で、制作をしたり発表をしたりするというのは非常に緊張感のあることだなぁと。これが沖縄に帰ると、まず小学校の同級生なんですよね。僕は絵描きですが、まず小学校の同級生として接してくれる。有難いんですけど。なんとなくそこである種の緩みみたいなものが出てきちゃいそうな気がして。だから、沖縄になかなか帰ってこない、ここを引き揚げないっていうのはいろんな理由がありますけど、ひとつの理由としては、沖縄に帰ると緊張感が失われるから。その可能性が高い。自分が絵に取り組む以外にもいろんな人付き合いとかそういうのが生じてきたりして、追い込むことが出来なくなるんじゃないかな、という懸念があって。それで今も沖縄を離れているということがありますけども。向こうを離れた最初の動機は父親から離れたいっていう思いがあったのと、あともう少し厳しいとこで習った方がいいんじゃないの、ということもありましたね。とにかく今のままじゃ全然ものにならんぞ、というのは、もうはっきり感じてましたので、将来展望ないなぁと。

仲嶺:それは周りとの比較とか、そういうのがあるんですか。

与那覇:その時になったら、三年生、四年生時点で、わりと僕頑張ってたんですよ、周りの中では。画歴にはたまたま載せてなかったんですけども、僕の最初の発表って、グループ展なんですけども。四人展なんですよ。大学三年の終わりくらいだったと思うんですけど。那覇市民ギャラリーで、前の那覇市民ギャラリー。パレット(くもじ)が出来る前の。絵画、彫刻四人展っていって。彫刻の上原一明と砂川泰彦と絵画の佐藤文彦と僕の四人で展覧会をしたんですよ。彫刻はフロアをそれぞれシェアしたと思うんですけど、絵画については4分の3か5分の4くらい僕の画で埋めたという感じですね(笑)。それくらいたくさん描いた。それは一、二年のときの緩んだときとの裏返しで、これじゃまずいぞ、あと二年しかないのに、こんだけしか描けてない。しかも描いた作品こんだけしかない。どうするのあんたっていうふうに自分が思って。やばいわこれ。で、かなり猛烈に描きました。で、それが実は最初の発表だったような気がしますね。公募展とか、沖展とか別に。自分で発表するぞと思って発表した最初だったと思います。あれ何の話でしたけ?これ答えでしたっけ(笑)。

町田:制作を続けていくことになるじゃないですか、厳しい環境に身を置いて絵と向き合っていく、それで生活をしていくっていうふうに志をもってったということですか。筑波に身を置くというのは。

与那覇:んー、と。

町田:直結ではなく?

与那覇:直結ではないですね。あのさっき、大学卒業時点で全然このままではものにならないと、なぜものにならないかというところで、その時点では明確に父親がいるんですよ。もう間違いなくそれで食ってますからね。壺もやってましたけど。絵で食ってましたから。絵で食うというのはこういうもんだという、おそらく当時唯一のサンプルですよ。あそこまでやらないとだめだったら、いまの自分は絶対無理だと。じゃあどうしたらいい。ってことは、欲しいのはモラトリアムですよ。猶予がほしい。猶予がほしくて、でも父の側にはいたくないから(笑)。ある種の二代目みたいな感じで思われるのが嫌だったんだろうな、と思います。そういうこともあって、それでこちらに来た。ただしその時には、こうやってこうやったら作家になれる。だからそのためにがんばる、というような明確なビジョンとスキルというか方向と方法をイメージしては望んでないですね。ですから、非常に甘い考えであったなとは思います。

町田:ものになる、ならないと思った、ものというのが画家っていう職業だとしたら、そこを目指す、進む意味で進学だったり、制作を続けるということにならないですかね。

与那覇:いわゆる職業としての画家というものが当然、父がいるからそうなんですが、それとは別に父以外のほぼ99%の沖縄の画家が、あらかた別な職業を持って制作をしている。その多くは学校の先生だったりするんですけど。そっちの方がケースとしては多い訳ですよ。なので、美術の先生になって絵を描くというそういう選択肢もあるだろうと思ったんですけど。ただ教員採用試験に受かるのは大変だなぁという(笑)。僕のときには教員免許は半強制的に取らされたんですよ。事務局の方から「頼むから取ってくれ」と。要するに何か手に職をつけて、何かそういう資格を持って出てってくれないと、一期生だから示しがつかないという部分があったと思うんですが。ただね、受かんないんですよ。僕は教員採用試験自体を受けてないですけども。受けた人達の中で、あの時には一人も二次試験まで通らなかったですから。一次試験通っただけで「すごーい」って(笑)。もうここまできたら御の字だよね、そんな感じでいましたからね。大方の人間が受かると、はなから思ってなかったですよ。でも教員のことに関しては、琉大の人達はああ凄いなあという感じですよね。ばかばっかでしたから、沖縄芸大は。良くも悪くも。なので両方の選択肢が、いまいち現実味に欠けてたっていう。親父のような画家の道ってのは、沖縄ではワン・アンド・オンリーみたいな感じだから、どう考えてもものすごい努力も必要だけど、めちゃくちゃな才能も必要だっていうのが見てわかるわけですよ。それは難しいだろうと。一方、先生となるとたくさんいるんだけど、やっぱり勉強して試験受かんないといけないっていう(笑)。それ受けて受かるのかと。俺もう駄目だな、みたいな感じで。どうしたらいいの、その間に何かないの、ってとこでしょうね。おそらく。何か別なことで何とか食いながら、絵を描くことが出来たらいいな、みたいな感じを持ってたと思うんですけども。その当時は、僕が卒業する当時はバブルの真っ最中だったので、バブル崩壊が92年かその頃くらいだったと思うんですけども、本格的に崩壊したのは95年かその頃。僕らが大学を卒業するとき、大学院を卒業するときは、売り手市場というか、引く手数多なんですよ。しようと思えば出来るというか。で、わりと就職しようと思えば出来るなという感覚はあったんですけども、自分は結果的に正社員になるということではなくて、パートタイムで非常勤講師をしながら絵を描くということがたまたまできるという感じだったのでそれをして、とにかく制作して発表しないといけないなというのは、その当時は漠然とだと思うんですけども、ちょうど僕が大学院浪人の時に『美(ちゅら)展』っていうのを結成したんですよ。なので、大学院生の時は既に『美(ちゅら)展』を始めてた。で、修了しても、自分の発表の場として、『美(ちゅら)展』で発表していた。で、それ以外に高村牧子さんっていう同じ彫刻の一期生の人に誘われて、若手作家現代交流展というものに入って、発表するようになったと。で、この二つのグループ展が毎年あったので。それをとにかく続けていくということで、二十代の終わりぐらいまでやってたのかな。ただその時点でもどういう人間になるのかっていうのは見えてなかったし、ひとつ、バブル絶頂期っていうのは就職して当り前なので、正社員になるか、画家になるか、落ちこぼれるかのどっちかしかなんとなく見えてこないところがあって、だから、正社員にもならず、職業画家でもないけど絵を描き続けているのはものすごく中途半端なポジションだと周りからも思われてたし、僕もそう思ってたんですけども、僕があの時点でできる事はそれが精一杯だったと思うんですよね。実は今でもそうなんですよ。別にこれで食ってないですから。もちろん買って下さる方いらっしゃいますし、とてもありがたいことですけども、これが僕の生計を完全に立てることになっているかというと全くそうではない。それ以外のことで自分が食っていくっていうことをやらないといけない。だけども、続けてきて思うのは結局好きなことがやれてるわけですよ。好きなことがやれてるっていうのは非常に価値のあることだなぁと。これ当ったり前のことのような気がしますけど、90年代の初期から半ば、やりたいことやってるっていうのはとてつもない無責任なんですよ。世捨て人みたいなもんであって。皆就職しているのになんで就職しないの、絵描いているの、それで食えてるの、食えてないの、へーみたいな。それが今僕がキャリアを重ねているからかもしれないですけども、社会的状況の変化もあって、おかしな感じには見えてないと思うんですよ。それは、正社員になって当り前という社会構造がガラガラ崩れている。社会環境の周りは崩壊過程に今ある中で、僕みたいな人間の暮らし方が変わってないということによって、フラットな感じになってる。おかしなものではなくなってる。そんな中で暮らし向きは大して変わってないのに、こっちはやりたいことがやれてるわけですよ。向こうは必至こいて、パート先を探してたりするわけですよ。生活水準は向こうが上です。こっちはものすごく低い。だけども、じゃあ使える時間は、といったら僕はほぼ一日ここで絵を描いていられるわけですよ。要するに自分の一生の中で後で買い戻すことのできない時間と言うものを、お金で大量の金額で買ってるんだと思えばものすごい贅沢なことをしてて。かつ自分が好きなことをやって、自分自身のことについて悩むことが出来て。それを社会に問うことができて。そしてそれについての責任を最終的に自分が取るという、そういうポジションでいられる。責任を最後取ることが出来るというのはむしろすごく自由を得られることの裏返しだと思うんですけど。そういうふうなことが出来るっていうのはすごく有難いなって思いますし、それは今は僕はこういうこと自体に誇りを持っていますが、当時卒業してすぐ、修了してすぐ、二十代っていうのは、ものすごい引け目を感じながら生活してたし、その大きな理由は、さっき言った社会の側がすごいイケイケドンドンだったっていうのもあり、かつ僕が作品に全く自信が無かった。ずっとこのままじゃものにならないと思ってて、卒業しても修了してもなおものにならない、ものにならないって思っている訳ですよ。発表はしてるんですね。そのうち感じたのは、どうもグループ展で発表してるとリアクションがよく分からんなっていう。グループ展って、『美(ちゅら)展』もそうですけど、かつ若手作家交流展はさらに輪をかけてそうなんですけど、展覧会に至るまで結構めんどくさいんですよ。参加人数が多いのと、あと普通の画廊じゃないところでやるっていうのと、下手すりゃ外国でやるっていうのがあるので。手続きめんどくさいし、運送会社に交渉ごととか、助成金を得るために走り回るとかそういうことをやっていたので、それがちょっと大変で、でもそれ自体は面白いんですよ。皆でわーってやる。展覧会はできる。だけども、それで結果、僕の絵はどう見られたのか、どうも分からない。これまずいな、と。ということで、個展をする。じゃまず手始めにってことで、僕が住んでいるところで一番近いつくば美術館で個展をした。その時は、お客さんたくさん来たんですけども、900人くらい来たんですけども、リアクションどうだったかな、って感じがあったんですね。ものすごい広い箱でやったんで。達成感はあったんですけども、じゃあこの作品って、どう評価されてるんだろうってのは見えなかったんです。で、そうこうしているうちに最後のグループ展といってもいいようなものがあって。若手作家交流展がチェコのプラハとドイツのケルンで、グループショーを連続でやることになって。そうすると結構長いこと向こうに行かないといけない、どうせなら行ったっきりで向こうにいたいなと思って、職場に学校ですけど聞いたら、こんな長い期間は休まれるのはまかりならんと言われたので、じゃあここが潮時だろうと思って、そのとき非常勤を三つくらい掛け持ちしてたのを全部辞めて。

で、向こうに渡ったんですよ。向こうに送った作品は作品の出来としては自分では全く不満足で。非常に鬱々としていたんですけど。向こうに行くと、普通のグループ展だと当番制みたいな感じで当番がその画廊に居るみたいな感じ。だけど海外だと皆で行くので、四六時中一緒にいるわけですよ。という中で、一緒に展示活動をし、一緒に飯を食い、一緒に酒を飲む、そのときって作家なんですよ。作家という属性しかないんですよ。チェコでもケルンでも。作家という属性で話をする。中で出品者の友人達が「与那覇君の絵はいいと思うんだけど、内に籠ってて見る人に伝わりづらいんじゃないかな、見る人は分かんないじゃないかな」って言ってくれて。その時の助言っていうのはものすごく素直に受け止められたんですよ。まさにそうだなと思って。その時にこのままではいけないなっていう思いがあり、人に伝わらないよって助言があり、じゃあどうしようかと。仕事も辞めたし。じゃあとにかく発表しようと。かつ筑波で発表してるとリアクションが分かりづらいし、東京でやろうと。僕にとっては東京とか銀座っていうのは距離がすごく遠かったんです。気持ち的な。ある意味、笑われるかもしれないですけど、立派なところな訳ですよ。そういった中で自分が作家です、作品を発表するにはものすごく引け目があったんですけど、それやらないともう駄目だろうと思って。じゃあもうそういうところで作品を問うことにしようと。多分向こうにいる時にすでに思ってたと思うんですけど、数回は少なくともやろうと。お金がかかることなので、貸画廊でやりますから。そうそう続かないだろうと予め思ってたんです。でも二、三回やらないと分かんないだろうと。二、三回やって鳴かず飛ばずであれば、もう完全にリセットして、ようするに絵を辞めて、全く別の人生のことを考えよう、というつもりで帰国したんです。で、制作をして。その時に今までこんなふうに入ってたものを逆向きにしようと。開こうという気持ちは強くありました。どう開くのかということについては、その当時影響を受けていたゲルハルト・リヒター、影響は受けているんだけども、影響を受けているという局面が見えた時に、僕はそれを消してたんですよ。オリジナリティが無いと思って。だけども、どうせならこの際、徹底的に影響を受けちゃえと。要するに学びましょうと。私はゲルハルト・リヒターの影響を受けてますということをはっきり外に向けて言おうと、作品でもって。具体的に何をするかというと、ゲルハルト・リヒターのあるシリーズ「フォト・ペインティング」と言われてるものの、いわゆる写真から絵を描く、彼の場合ピンボケの絵を描くんですけども、その中でもアブストラクトなフォト・ペインティングというのがあって、紙とかキャンパスにガッシュや油絵の具でめちゃくちゃな図柄とか色の組み合わせをやって、そのうちのどっか面白そうなところをトリミングして、それを写真に撮って、それを徹底的にリアルに描いていこうという。これについては写実なんですけど、出来上がったものは何が描いてあるか分からない抽象なんです。それを図柄を真似るんではなく、プロセスをまるごと踏もうと。アブストラクトなエスキースを描いて、面白そうなところを切り取り、写真に撮ってプロジェクターにやってリアルに描いていこう、そうすると何ができるのかというと、形とか色彩について、自分が描きながら出てくる嗜好性、制作の瞬間瞬間で、こうした方がいいな、あ、これだめだな、という判断、これを徹底に描くということによってオミットできると。要するに自分が今まで抱えてた自我みたいなものを一旦切り離すことが出来る。そうすると今まで使うことのなかった色とか形とかっていうのが、ここにあるから使うことになって、そしたらパレットが前と全然変わったんですよね。そうやって描いた、あからさまにゲルハルト・リヒターの影響が出てるものばっかりで構成してやったのが銀座で最初の個展。東京でやった最初の個展。でも来る人、来る人「きみ、ゲルハルト・リヒター知ってる?」とか、「リヒターみたいだね」と言われて、「そうです、勉強しました。この絵はこんなプロセスでやりました。」ていうことをずーっと言って。そしたら、似てるけど面白いね、っていう人がいたんですよ。しかも結構な数いて。その中で評論家の方とか、ちょっと前にお亡くなりになってしまいましたけど鷹見明彦さん、それこそさっき美術手帖で記事を書いてくれた評論家、作家の方ですけど。そういう方が初めて来たときに「結構面白いね」「頑張ってるね」って言ってくれて。それ以降ずーっと展覧会やるたびに来てくれたり。あとギャラリーの人が来て、良かったらうちでやらないか、というふうなことを言ってくれたりしたんですよ。個展をする直前までは、もしかしたら完全に無視というか、何の反響もないかもしれない。お客さんも少しは来るかもしれないけど、それでどうこうってことは起こらないかもしれない、というふうなつもりでいたんですよ。実際、自分が他の人の展覧会に行くとそういう雰囲気が醸し出されていたりするので覚悟していたんです。で、やったんですけども。たまたまというか、もしかしたら自分が見る人の側に向けて開く、気持ちの上で開き、あと造形的な面でも開くということをしたのが伝わったんじゃないかな。半年前のチェコでは伝わらないよ、と言われて、じゃあどうしようとやったことが伝わったんだなっていう。それがきっかけで次がやれるようになった。次ができると、また次がある。経済的なものが少しづつ入ってきたり。コンクールで賞とったり。そうするとあぶく銭が入って、それが次の作品の制作資金になったりするっていう自転車操業だけど、繋がっていける、切れないで済んでるっていうのが続いていったんです。これはものすごく有難かったです。全く想定できなかったことです。20代の自分には。そうこうしていくうちに、個展で発表すると銀座の画廊の人が見に来ます、で僕が行くと、あ、与那覇さんですね。個展やってる作家の与那覇さん。僕当時は30代半ばくらいまでは自分を作家として紹介されることに照れがあって。いや作家の卵ですって言ってたんですよ。すごく気恥ずかしくて。とてもまだ作家とは言えんだろうおまえ、みたいなのがあって。それがずーっと続いていくうちに、ある種消去法的に自分が作家でしかありえないような状態になってきて、でまあ現在に至ってるんじゃないかなと思いますけど、その時の29歳、30歳になって外国で展覧会やって、決断して作品を変える、生活も変えるという。多分自分の一生の中で自分で決断をしたという数少ない例ですね。たまたまその決断のせいか、いろんな環境もあって今に至るまで繋がるもののきっかけが出来たというふうに思いますが、事前には全く想定できなかったですね。まさかこの45歳まで絵を続けるとは思ってなかったです。

町田:ギャラリーで見せていったり、その中でも毎回展示のテーマだったりモチーフも変わってきてるかと思うんですけど、45歳までやる中で、さっきの外国とまた違ったアメリカの方に一年行くことになった際にもまたきっかけというかモチーフを得た感じがあるんですけども。

与那覇:そうですね、もともと風景画、今も風景画。最初、オーソドックスな風景画から入っていって、自分の興味の対象が空とか雲とかっていう、不定型なものに移っていく。分けてもその中でも変化するもの。或いは、空というのは眼差しは行くとこまで行けちゃいますから。遠くまで。そういう奥行きを感じるっていうのと、あとそこから放たれる光っていうものが、自分の中では多分一貫したテーマだったんでしょうね。明確に掲げてないですけど。そういう気持ちで描いていて、途中で完全な抽象になったりとかしながら作品を試行錯誤すると。有難いことに制作の発表の機会は続けて得られていったと。それが最初はすごく新鮮でいいんですけれども、繰り返していくうちになんとなくルーティンワークじゃないですけど、今回やったものがまた次もあるんだろうなというような、以前だったら今回で終わりかもしれないっていうのが、今回やってるときになんとなく次もあるだろうなっていうのが、なんとなく見えてきた時に、作品自体は変わるんだけど自分の気持ちが繰り返しになるような部分があって、そうした時にこれ続けてると展望がないかもしれないと思って。どうしようか。じゃ住むところ変えたらいいかって(笑)。というような気持ちになったんですよ。ひとつ自分に前例があったのが、沖縄から筑波に移った時、明確。さらに後から考えると、コザから宜野湾に移ったときも変化があったんですけど。まあとにかく筑波に来たことで見えるものが変わり、思うことが変わった。じゃあこっからまたどっかに移れば変わることができるんじゃないかな、というのが一つと、あと海外に留学して、もしかしたら海外で発表できる機会があったらいいな、という漠然とした期待があって。僕の絵をずっと見てくれてた芸術学の藤井久恵先生がいるんですが、藤井先生がアメリカに行ったらいいわよ、と言われて。実は僕アメリカに興味がなかったんですけど、いままでアメリカ本土に行ったことがなかった。行ったことがあるといえばイギリス、フランス、スペイン、ドイツ、チェコといったところで、どちらかというとイギリスとかドイツの方が自分には肌合いが合うだろうと思っていたんですが、全然違うところ見てきた方がいいわよ、と言われたというのとどうせだったら自分が興味が無い、或いは嫌いとさえ思えるとこ、かつ制作のスタイルとしては影響を受けているだろう、というようなそういう場所にした方がいいのかと思ってアメリカを選んで行ったんです。そこで得られたものは、モチーフである以上にモチベーションの部分なのかな。なんで絵を描くのか、というところに突き当たったのかもしれません。もともとは抽象表現主義をはじめとする戦後のアメリカ美術の研究をするんだという建前で行ったんですけど、行った一週間くらいの間に抽象表現主義の興味を美術館の中で失うという体験をして。要するにニューヨーク近代美術館でバーネット・ニューマンを見て、首を傾げるっていう。だからそのときに思ったのは、バーネット・ニューマン大したことないんじゃないかっていう気持ちではないです。バーネット・ニューマンを見てるのになんで俺は感動しないんだと。具体的に思ったのはバーネット・ニューマンに対しては、こうであるべきだろう、と思うよりもほんのちょっとサイズが小さいんですよ。なぜこうであるのが正しいって自分が思ってるのが不思議なんですけど。一つはロスコには実物、自分が何度も接しているので、そういうスケール感、人間を基準にしたスケール感っていうので適正な大きさってのが抽象表現主義とカラーペインティングにはあるだろうと。ある程度の大きさが必要なのは適正な大きさが必要だろうと気持ちは思っていたので、適正な大きさがあることによって入ってくるものがある、ということで見ると、僕が見た時のバーネット・ニューマンは3点から4点あったと思うんですけど、全て適正な大きさより小さい。そのせいかどうか知らないですけど心が動かない。心が動かないということ自体がショックでした。なんで俺はこんなに心が動かないだ。そのときに何か空気が抜ける音がするような感じで、風船から。そういう絵画への興味が薄れていったんですよ。そっから先は見るよりも描くんだと。自分の作品をスタジオでずっと描いてたんですけども。その合間合間でみたアメリカの美術館の中で最も僕の気を引いたのが、ドメスティックな20世紀前半もしくは19世紀以前のアメリカ美術、どちらかというと具象画で、まあまあ全部具象画ですけども、スタイルとしてはヨーロッパ絵画の影響を受けてるというか、むしろ亜流と言ってもいいくらい、そういう作品群が並んでいて、それにすごくシンパシーを感じたんですね。その時に比較したのがヨーロッパの美術館にあるいわゆる本家本元みたいな、その美術館に掛かってるヨーロッパ絵画とアメリカの美術館に掛かってるアメリカ絵画ってのは佇まいは色や図柄がこんなに似てても全く別だっていう感覚があって。一番大きかったのは、ヨーロッパの美術館では直接感じなかったんですけどもアメリカの美術館って非常に自信なさげな佇まいがそこに漂ってる。所在無げというか、よるべなさというか。それを思ったときに、そういえばヨーロッパの美術館ではそんなこと感じたことなかったんですよ。圧倒されてたんですよ。すげえな、と思って。関心しないのたくさんあったんですけど、ヨーロッパの美術館では圧倒される感じがあったんです。アメリカの美術館でみたアメリカ絵画は入っていけたんですよ、こちらから。圧倒はされない。なんでなんだろ。ある種の喪失感、欠落感っていうのがどうも感じられて、欠落そのものにすごく自分が共感したのは間違いないなと思って。この感覚ってのはもしかしたら自分の芸術的行為っていうのを支えているかもしれない。だけど、じゃあどうしたらいいのっていうところでそっから筆が取れなくなって。実際そっから、アメリカに行った前半半年で僕は80点くらいの作品を描いたんですけど、後半では作品は一点も描けず。鉄錆びの水彩画みたいなものを当時暮らしてたアパートの裏庭をテラス越しに見ながら描いてっていう状態で毎日毎日暮らして半年を終えて、帰ったらどうなるんだろう。個展しなきゃいけないんだけど、と思いながら帰ってきたわけですよ。その時点で得たものはモチーフではなく多分モチベーション、しかも、自分にとって絵を描くことと生きていくことはどういうことなんだろう、っていう疑問がありましたね。加えて、フィラデルフィアの郊外とかに行った時に見えてくる住宅地の景色、というのがなんだか知らないけど懐かしく、どこで懐かしく思うんだろうって思ってたら、芝生がこうあって緩やかに傾斜してて、一階建ての大して立派ではないけど一戸建ての広めの家がポンポンと垣根なく存在していた。ちょぼちょぼと木が生えてる。というのを見て、ああそうだ、ライカムだ。僕が小学校の頃いた、あれが懐かしいんだって思った時に二つの想いがあって、一つはここに懐かしさを覚えていいのってことですよね、社会的な問題、いわゆる占領軍がいるところであって、出ていってほしい対象なんですけど、それに愛着を感じ懐かしさを覚える。フェンス越しなのにっていう感情が許されるのかってのが一つ。そこに懐かしさを覚えるってのは裏返しとして、自分が生まれ育った場所が跡形もなく変わってしまったということ。自分が生まれ育った場所が帰っていっても同じように待っていてくれてるんだったらそっちの方に懐かしさを覚えるんだと思うんですけど、全くそうじゃないんですよ。変わってしまったという想いは何度も何度も経験したので。自分が生まれたところ、育った場所っていうのは僕の記憶のままではない。これもこれだけなら故郷が変わっていくっていうことへの諦めがきくけど、フェンスの向こう側は昔のままなんですよ。全く変わらない。帰省するたびに同じ顔で迎えるんですよ。どっちに愛着を感じるかっていうと僕はそっちに愛着を感じたんですよ。それはどう解決するか、というのは未だにありますね。そういうなにか自分の存在の根本的なところに問いを突き付けられたように思いました。それ以降、僕は自分の展覧会のタイトルを「Home」とつけて、自分の問題意識ってのはそこなんだと。ということで制作し発表するようになりました。その点では非常に大きかったですし、これもまた事前の予測と完全に外れました。想定外でした。自分が興味をもった対象も想定外でしたし、こんな感情を持って、かつ絵も描けなくなって戻ってくるとはとても思えなかった。でもそれは結果的に自分が次のステップを踏んだり、自分が絵を描いていく人間なんだという自覚を持つ上ではすごく必要なことだったんだな、というふうに思いました。

町田:一旦は流れみたいなものは聞けたかなと思うので、後は個々の作品についてなにかお聞きしたいことがあれば。

仲嶺:あの金網の(作品)。

与那覇:金網は、最初に興味を持ったのはフィラデルフィア。アメリカに暮らしているときです。絵が描けなくなった時、テラスを眺めて中庭がある。その中庭っていうのは住宅地の区画ワンブロックあって、ドーナツみたいに取り囲んでいるんです。家が。玄関は全て通りに面している。ドーナツの穴の部分ってのは、丸ごと全ての家屋の中庭になってて、それをこういう金網のフェンスによって間仕切りをして使っている状態だったんですよ。その区画っていうのは恐らくは100年単位で変化してないだろうし、立っている家も僕が住んでいるアパートも築数十年ないし100年近い、ということで中庭も変わらないわけですよ。そうするとめちゃめちゃ木が生い茂っててうっそうとした森になってると。そこにこう金網があって、小動物がたくさんいるんですよ。特にリスがたくさんいる。そのリスを半年延々眺めて暮らしてました。フェンスを当り前ですけど潜り抜けていくわけですよ。彼らにとっては全然壁ではない。昼間は日射しを受けて木漏れ日がずっと落ちていって、光のたまが芝生の方に映り、かつ金網の方にも光がこうあって影があってっていうようなものが、金網に斜めに映ってくるわけですよね。向こう側は暗かったり明るかったりするんですけど、こちら側にそういう柄ができてきて。そういう移り変わりとか、金網に当たる光ってのはきれいだなと思って。何か描いてみたいな。金網を隔てて奥があり、手前があり、中間地点のところで非常に美しい光の戯れがあるっていうのは僕の造形上のテーマとぴったり合致するんですよ。奥行と光。これはすごく絵描きとしてはテーマとしてはいいなと思って、なんとかして描けないかなと思って。というのが発端です。ただ、さっきも言ったように自分の中での、なんで絵を描いているかっていう疑問を突き付けた、その懐かしい景色というのは、かつて金網越しに見ていて。フィラデルフィアでは金網がない、そういう懐かしい景色だった。沖縄ではその懐かしい景色を隔てていたのは金網であって。しかもその壁っていうのはシースルーだけど絶対的な壁ですよね。沖縄においてこの金網フェンスっていうのは絶対的な壁ですよね。差別/非差別、占領/非占領という関係。だけども僕はこの光の戯れを美しいと思っている。だから完全に分裂しているわけですよ。描いてはみたんだけど、だめでしたね。ここに戻ってきてからも、そこの壁に掛かってるあれは2007年、2006年か、戻ってきてからすぐに手をつけた絵なんですよ。それやってて、いろんな点ですごくめんどくさい作業が入ってると、全力でそれに向かうってのはできないと諦めて、また別の作品を描いたってことがありました。それ以降も、折に触れて取り上げるんですけども、なかなかうまく描けない。ということで試行錯誤をしている今最中なんですね。

大山:これは今描いてる作品ですか?それともだいぶ前に描いた……。

与那覇:これは、ついこの間描いたやつです。ただもともとこのモチーフで一回描いたことがあって。だいぶ前なんですよ。最初描いたの。98年か99年くらいに描いてる。けれども、それをもう一度描いてみようかなと思って。これはいわゆるフォト・ペインティングですね、ただ自分の中でフォトっていうものの存在があんま無いんでそれをとっかかりにした色の変化の仕方、例えば具体的にはここら辺とかここら辺とかの色の変化と強いコントラストの色の関係っていうところに興味がいってますね。最終的に写真のように見えるかどうかってのはどうでもよくなっていますね。そういうつもりでとっかかりとしての写真、そっから先は絵との対話の中で展開していけば変わって構わないし、というふうなつもりで描いています。

スタイルとしてはこっちの方が比較的新しめなのかな、2009年なので。これはちょっと逆光になるから見えにくいと思うんですけど、色の明るさを同じにして色相を変えていくっていうことで出てくる光ってのが表現できないかっていうのでやってるんですよ。この辺と、この辺ってのは白黒の写真で撮ると明度の変化がほとんどない。グレースケールに置き換えると全くわかんなくなるんですよ。これはまあ純粋的造形への興味プラス、光というのは特に西洋においては影で支える、光と影っていう二項対立でもって光と闇ってものが出てくるんだけど、そういうものだけじゃない、光と闇って造形あるいは色彩でいえば明度に還元される、色の明るさ暗さ、言ってみればデッサンってのはそれで世界を構築できますよ。明度の変化だけで世界を構築できる、色はそれに従うっていうのが西洋絵画のほぼ20世紀近くまで続いてきた伝統だと思うんですけど、そうではない光の在り方、同じ明度だけど色合いを変えることで滲むような感じの光が出るか、それが出来るようになってくると明るいところが光であるのは当たり前であるとしても暗い所でも光を発見することができるに違いない。そうなってくると光と影、光と闇っていうある種のヒエラルキーみたいなものが少し崩せるんじゃないか、そうすると世界は広がるんじゃないか。ということで取り組んでいて、それは比較的そっちの方に思いっきり重心を置いて描いてあるものですけども、最近僕が描いている絵は多かれ少なかれその要素は取り入れています。わざと同じ明るさで色合いを変える。そうすることで極端にやれば目がチカチカするんですよ。赤と緑を並べると目がチカチカするでしょ。あれって赤と緑ってのが色相が全然逆で、かつ明度がほぼ一緒だから。そうするとチカチカするんですよ。それをソフトな感じで対立させていくと、あるいはそこにグラデーションを挟んでいくと眼差しっていうのが滑っていくというのか、ある一点でばんと止まらずに揺れていく、滑っていくっていうことが起きたりする。さっき言った絵が最初に好きになった、絵を描いたキャンバスの向こう側に視線を飛ばせる。風景があったら道があったら道に沿って歩いて行く訳ですよ。或いは建物だったら、建物を辿りながら。色の変化だけだと、絵の方が勝手に自分の眼差しってのをやさしく手を引いて動かしていく、強制的なのは道なんですけど、強引に向こうへ持っていく。だけどもそういう色相の変化とかで出てくる表面を滑って行くような感じで動いていく眼差しってのは、いわゆる眼差しが絵の奥の方で散策をする時にエスコートが優しいと思うんですね。そういう優しいエスコートが出来る、そういう光の在り方ってのが自分の絵の中に盛り込めないかなということでやってます。だから、こっちもまだ全然出来上がってないし、この展開そのままで完成することはないかもしれないですけど、光の粒々が浮いたり沈んだりしてる周りで、霧のような色彩がこう舞ってるんですけども。どのように見ていただいても構わないです。自分の造形的な興味ってのは同じ明度の中での色彩の変化による動きと光の在り方と、明度変化による光の動きの在り方っていうのが、重なりあったり離れたりっていうふうな形になるといいなって思うんですよ。僕はバロックの画家がものすごく好きだったので、レンブラントとかフェルメールとか。あそこの画家を中心とした前後数百年のヨーロッパ絵画の歴史ってのはあくまでも明暗のコントラストで構築した世界に色が従うというふうなものだったと僕は解釈しているんですよ。ようするに、明暗でヒエラルキーが出来てると。出来たヒエラルキーにつき従う感じで色彩はくるんだと。僕はそのピラミッドを崩したいんですよ。もっとフラットにしたい。そのためには、明度変化っていうものに付き従わない変化のさせ方っていうものを、絵の中でクロスすることでもっと豊かな世界が作れるんじゃないかなと。僕はそのような眼差しの動かし方をする方が絵を見てて心地がいいので、そういうふうなところに少しでも近付けたらいいなと思いながらやってます。

――これがさっきのぼんやりした形で明度が同じ、だけど色相が違うことによって緩やかに眼差しが動かすっていうものの最初に手掛けたもので、正確に言うと若干違うんですけども、これとこれはほぼ補色関係なんです。ターコイズブルーみたいなものとちょっとオレンジっぽい茶系の色。ほぼ補色関係で、かつ明るさが一緒。厳密に言うとちょっと違うんですけどね、できれば完全に一致させたかったんですけど。でもって、これとこれは対立関係。これとこれを均等に混ぜたこいつが、いってみればこれとこれのつなぎ役として働かないかなということで。そういうことで出てくる絵画的な奥行き感ってどんなんだろうねっていうところに興味があって、やったシリーズが2003年にかなり集中的にやったんですよ。これはわりかしソフトです。非常にチカチカするのもあります。その時までは明度変化と彩度変化と色合いの変化っていうのを自分で動かすことが出来なかったので、これはひょっとすると最初に手掛けたのはアクリルでやったんですよ、リキテックス。あと、ホルベインのアクリル。なんでかっていうとリキテックスには色の情報が書いてあるんです。色の三要素、色相と彩度と明度が。明度とかは数値化されているので、明度5.5っていうことであれば、別の例えば青の明度5.5、赤の明度5.5っていうのは一応機械的に言えば明るさが一緒だと、僕には何か違うように見えるんだけども。そうすると突き合わせると明るさは一緒。白黒写真撮ると真っさらに映るものが、カラーにするとどぎついチカチカに見える。というのに面白味があったので、自分の眼では判別がつかなかったので、リキテックスの小さいチューブを大量に買い求めて。特に明るさの一緒のやつもこうやって、それを明度5.5を5とか4とか3とか2とか1っていうふうな入れ物をつくって、それに入れていって、同じ明度で色相の違うものっていうのをつき合わせて出来る空間ってのがどんなものになるのかなっていうことを、集中的に2003年、4年くらいにやりましたね。その時に得た自分の感覚ってのがその後のソフトな時のものに使われている、という感じです。そこで以前は明るさの変化と色合いの変化ってのは密着してたんですけど、これを経て以降のものは、割と意識的にずらすようにしています。そういう感じです。

大山:イーゼルに立ててるものが今描いている作品ですか?

与那覇:そうです。あれも今描いているものですけど、あれは水の波紋をスタート点にして描けないかなって。今描いてる主要なテーマのひとつは水面なんですけども、水面に映るもの、或いはそこにあるものっていうのが描けないかなと思って。場合によっては写真を手掛かりにしてとか、或いは全くそれを無しにしてというふうにやってます。うまくいったりいかなかったりするので、まだ試行錯誤の途上ではあるんですけど。

仲嶺:こういった水辺ってあるんですか?近くに。

与那覇:そうです。(アトリエ近くの田んぼの写真を見せながら)この水辺っていうのが実は今、緑色になっているところが、4月には丸ごと水なんですよ。ひっくり返っても分からない。ゴミがついてる感じ。田植え前の。水を張って代掻きをして、田の底が平らになったときの状態が、田植えまでに一週間ないし二週間あるんですよ。その間にそんな感じの水鏡ができて、風が無いときには完全に水鏡になると。これは多分田植え前の状態なんですけど、稲刈りが終わった後に、雨が降るとこうなる訳ですよ。土くれがあっちこっちに見えて。これ多分9月頃だと思うんですけど、太陽が向こうら辺に落ちているっていうのはまだ夏のなごりが残っている証拠です。秋になってくると、ここに動いてきますから。いわゆる9月の秋の雨が降ると稲刈りのコンバインが通った後だから、ゴツゴツしている訳ですよ。そこに雨が降るとこんな風に水鏡と土くれが同居するような感じになって。こんな感じで。

仲嶺:一年中見飽きないですね。

与那覇:見飽きないですね。今が一番面白くないですね。

仲嶺:私は田んぼでも感動しましたけどね。

与那覇:無いからね。このようなものを元にして、以前2010年に画廊沖縄でやったときにはこういう作品を描いた。これの元ネタはこちらにあって、これは画廊沖縄の上原さんに最初このDMのイメージを見せた時に「人工衛星から地球を見下ろしたみたいな感じがしますね」と言ったんですよ。これを筑波の絵のサークルのおばちゃんたちに持ってくと、田んぼですねとすぐ分かる。一応これは具象絵画であるということは多くの人が見てとるんだけど、じゃあどういう絵でしょうねって言ったら考えや見え方が分かれるってとても面白いなと思って。

仲嶺:現実だけどちょっと違う。

与那覇:これは合成なのか。この辺はそのまま。

仲嶺:パソコンで写真とか補正したりするんですか。

与那覇:露出を補正したりはします、光はしますね。コントラストがものすごく強いんで。白が飛んだりするんですよ。なのでものすごくアンダーで撮って。あとで補正しながら明るいところは白く飛ばないような感じにはしますよね。それほどは、後は色彩的には弄ることはない。

町田:アトリエの外行きますか、散策。

与那覇:行きますか。――今こんな感じ。まだ穂は出てないですね。今だいぶ伸びてきてますけど、4月の中旬くらいに田んぼに水を張って、下旬くらいに代掻きをして、しばらく落ち着かせるんですよ。そうするとその間は水を張った状態になるので、風があんまり吹かない日は水鏡になって、ここの景色が丸ごと映り込むっていうそういう感じ。

与那覇:多分12月前後は自分がここ通るときに日が昇ってくる、真冬になると真っ暗な状態です。11月、12月くらいは日が昇ってくる。そういう景色もわりと絵に影響しているのかなと。 あそこに川があって春になると菜の花がばーっと咲いて、三年前までは春になると菜の花を摘んで食べるってのが良かったんだけど、原発事故以降、怖くて。特に菜の花は地球にあるセシウムをよく吸収するらしいので、手が出せなくなってる。こんな感じだけど、落ちてますから放射線は。実る頃には黄金色に変わるのでそれはそれで綺麗。そしてやたら雀がいる。通常だとこの辺に白鷺とかいたりするんだけど。

アーカイヴ

粟国久直
稲嶺成祚
新垣吉紀
上原美智子
大城カズ
久場とよ
阪田清子
高良憲義
照屋勇賢
永山信春
比嘉良治
真喜志勉
山城見信
山田實
山元文子
与那覇大智