OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT

粟国久直

粟国久直(1965年~)
沖縄県宮古島市生まれ。大阪芸術大学美術学科絵画専攻卒業。同年代は中原浩大など関西ニューウエーブの吹き荒れる頃であったが、粟国は本質的な問題を常に意識していた。それが、川崎市における《Lotus》という原初的な作品に繋がって行く。作品制作の前に言葉を立ち上げ、それによって喚起される図像―Diagramを描くことと、DNAをモチーフとした始原的な追求、そしてここ数年は,沖縄における戦争から展開し、人類の争いの本質をテーマとした作品を制作している。

インタヴュー

収録日:2014年11月12日
収録場所:自宅アトリエ(大阪府堺市)
聞き手:大山健治 撮影:大山健治
書き起こし:大山健治

大山:今日は宜しくお願いします。

粟国:宜しくお願いします。

大山:生まれはどちらになりますか。

粟国:沖縄県宮古島です。1965年です。ちょうど小学校一年生の時に復帰を迎えた世代ですね。

大山:家族構成は?

粟国:両親と姉が二人。まあ宮古にいるときには祖母と祖父とという感じですね。

大山:小さい頃はどのようなお子さんでしたか?

粟国:まあ普通の子供でした。今考えたらね、美術は好きだったみたいね。お絵かき、図画工作。だからうちの母親に言わせたら作文の表彰状より、図画工作のほうが圧倒的に多いという。自分は全然意識したことは無いんだけど。

大山:小さい頃の記憶に残っていることはありますか?

粟国:まあ宮古島なので、那覇とかそういう都会ではないので、ただ今僕がこの世界にいるときにちょっとハンディーになった……マイナス要因としては民放が見れなかったという。例えば70年代の大阪万博に関わるあの当時の風俗とか流行ごとや話題についていけないという。まず仮面ライダーはテレビで見れないので懐かしいシリーズの話、特に関西だったらヤノベさんとか、あの辺の作品の内容、オタク系のね、コッミク系の……まったくついていけないという。ましてやガンダム知らない、ドラえもん見たこと無いという、これは物理的な、民放を見ていないコマーシャルを知っていない宮古島、先島諸島と(沖縄)本島の圧倒的な感覚の違いですよ。

大山:じゃあ代わりに雑誌を読んだりとか……。

粟国:そうそう、そのかわりかなり飢えてますよね。雑誌とか情報とかに見れない分、結構マニアックになってた。本島の人たちよりもマニアックな追求の仕方はもしかしたらあったかもしれない。八重山はあんまりわかんないけど、特に宮古は特殊ですよ。

大山:情報に触れる機会が少ない分、そういうものに対する……。

粟国:……欲求が、ハングリー的な。だからちょうどまあ世俗的なものだったら、例えばプロレス中継とか無いので小さい頃はビデオでしか見れないので、民放のアニメとか那覇で録画したものを宮古でビデオで見るという。それぐらい飢えてましたよね。だからこれがあたりまえではない。これが高校卒業する頃にケーブルテレビが普及して、格差みたいなものが無くなったんですけどね。それが結構、現代美術をやってるときには、大阪、関東にいても不思議な立ち位置になっちゃうんだよね。知らない世代という。更に追いうちをかけたら、ぼくの小さい頃の思い出は、復帰前だからドルでお菓子を買ってきた世代で、みんなに「えー」と言われる。そういうかなり不可思議なピンポイントの世代ですよね。

大山:そのときは日常生活品とか身の回りにあるものをドルで買っているんですけど、アメリカ製のお菓子だったりとか。

粟国:そうそう、まずHERSHEY'S KISSESとか、まあ沖縄本島でもそうですけど。まず駄菓子系に弱いという、懐かしいシリーズについていけないという、まあこれはね沖縄本島でもそうだったと思うし、僕らの世代と言うのは90年代、サブカルチャー時代の重宝された世代ですから、やっぱりそのへんから発信していくんですよね制作の中でも。村上隆もそうだったし、まあ村上さんはオタクではないけど、評論とか紹介文、記事の中でも大学に入ってからあらためて、例えばガンダム全部を一気読みしたいみたいな、勉強を始める世代ですよね。これは本島に住んでる人はリアルタイムでやってますんで。

大山:絵を見たりとか、作品や作家に出会ったり、身近に美術というものがありましたか?

粟国:まったく無いです。高校卒業して3年間は那覇に住んでる機会があったので、まず美術館が無いのでギャラリーというのを見てみて。ちょうど時系列、年表で言ったら僕らの世代と言うのは、まあ後で知るんですけど抽象的な絵面とグラフィックの境目の世代なので、イラストレーションとかグラフィックと呼ばれるものが市民権を得て、美術の中でも語られるようになって、これが普通で。だから絵が好きなんですけれど大学の志望する学生は圧倒的にグラフィックだったり、まあ最先端みたいな。ちょうど日比野さんとか日グラとかイラストレーターとかが出てきた頃なので、美術の世界と言うよりもそっちのほうに傾倒していって造形に足をつっこんでいったと言う人たちが多いと思いますけどね。

大山:高校を卒業してから宮古島を離れて。

粟国:そうそう、だから僕らは実質的に進学するか就職もそうなんですが、いったん高校を離れて県外もしくは宮古島以外で本島に行く。まあ一人で住んだり親元を離れたりというのがセオリーなので。

大山:大学は大阪芸術大学ですけどもきっかけは……。

粟国:たまたまです(笑)。だから僕はもともと造形系の大学に行くつもりがないので、ほんとたまたま出会いみたいなものがあって、そこから造形系の芸大、美大といったときに拾ってくれたのがうちの大学だったという、ただそれだけです。

大山:その頃は県外の大学に行く人は結構多かったんですか。

粟国:いや、僕の高校時代の幼馴染とかは、これは後から知ることなんですけど、数人は県外に行ってるやつを後から知ったり、でもやっぱり学年の中からどの学部も一人や二人、マイノリティなので。その中でも沖縄県立芸大が当時は無かったのでどうしても琉球大学の教育学部に行くか、県外に行くか。専門的な造形系の大学となったらやっぱり県外。まあメジャーとしては関東の大学、そこしか選択肢が無いという。ちょうど僕が大阪にくる頃ぐらいに沖縄県立芸大が開校する。そのタイミングですよね。

大山:話は前後するんですけど、復帰前後は何歳ぐらいですか?

粟国:復帰の頃は、小学校一年生、6,7歳ぐらい。そこからは普通の復帰後の世代と変わらない感じ。

大山:その時に何か印象に残っていることはありますか。

粟国:まあ低学年ということもあって、多感な時期ではないんですけど、ただお小遣いがドルから円に変わったり、でも復帰運動と言うのはかすかに社会の雰囲気として覚えてたり、テレビのニュースの一場面を意味も分からず、知ってる、知ってるということで、深く考える年齢でもないんで、まあその程度ですよね。

大山:730(ナナサンマル)は?

粟国:中学校一年生。確かそうだったと思う中学生だった。ちょうど夏休みで那覇の夏期講習に出てました。

大山:その時はどこに通っていたんですか。

粟国:定かではないんですけど、とりあえず夏期講習があって、夏休みになったら那覇に行って遊びたいというそういう願望があるので、それにかこつけて、そしたらたまたまあの辺に居たというだけです。

大山:数時間のうちに、右と左が変わるというその瞬間に……。

粟国:その歴史的瞬間みたいなことは深くは知らないんですよね、社会的な意味とか重要性とか。だから復帰してニュースの歴史的なドキュメンタリーで見るような、例えばドルから円に変わってどうのこうのということは実感としてはあまり無くて、もうちょっと高学年で高校生ぐらいだったら凄い衝撃的な事柄かもしれないけど、子供の頃はそんなに、まあ65年生まれというのは微妙な微かな記憶という世代ですね。

大山:大学時代の話を聞きたいと思います。大阪芸術大学の専攻はどちらになりますか。

粟国:美術学科の絵画専攻になります。最終的に専門は油彩、抽象ゼミという。

大山:その頃はどういう作品を作ってましたか。

粟国:大学の時代は、風景画を描くとかそういうスタンダードなアカデミックな実習ではなくて、どちらかというとニュー・ペインティングが入ってきた世代で、アントニ・タピエスとかサイ・トゥオンブリーとか。学生のテキスト本でスタンダードだったのはボイスだったりとか。アメリカ的なものは盛んではなかったので、結構ヨーロッパ的な、エンツォ・クッキ、フランチェスコ・クレメンテ。ニューヨークはジャン=ミシェル・バスキアぐらいですよね、僕らのリアルタイムは。それに影響を受けたりとか、だから風景画、具象画ではないというのが当時の流行でもあったし。 僕がすごいインスパイアされたり、リアルタイムで憧れたというのはイタリア3Cと呼ばれる人達。あとはキーファーあたりがガツンと来た世代です。

大山:その頃には作家になろうという意識があったんですか。

粟国:まったく無いです(笑)。ちょうど80年代終りに学生になってバブルの真っ盛りですよね。どちらかというと華やかな時代だったので自分が進むべき道というのは広告代理店だったり、デザイン系だったりとか。だから就職自体も広告代理店でしたよね。だから作家になるというよりも、俗に言うカタカナ職業がもてはやされた時代なので。バブリーな時代ですよね。それで、華やかな世界に首を突っ込んだ学生時代もあって、代理店とか広告の世界に進むんだろうなと思っている中で、僕がこういう世界にだんだん傾倒していくというのは卒制です。

大山:卒業制作。

粟国:卒業制作、実技でね。あれで何故かまじめになっちゃったという(笑)。そこで適当にやってさっさと華やかな高給取りになって外車に乗ればみたいな、そういう時代だったので、でも卒制で一度、ぐっと制作の中に数ヶ月でもやってしまったら、その面白さというものを再確認しちゃうんですよね。思い出になるはずが。だからそこでだんだん後ろ髪を引かれていく自分が居るという。まあ、バブルの真っ盛りな時なのでいつでも就職は出来る。とりあえずもう少しやってみよう、あと一年、二年マジでやってみたら面白そうという。それで卒業しても就職は逆にすでに青田買いで買われてますので、卒業間近になったら逆にごめんなさい、学校残りますって……。

大山:じゃあ大学でしばらく制作を続ける。

粟国:そうですね。まあこれが僕がもう、悪の誘いのように(笑)、悪魔の世界、ダークな世界に首を突っ込んで抜けられなくなったという始まりでしょうね(笑)。

大山:その時に作品を作ることに自覚的になって……。

粟国:目覚めちゃって(笑)、面白さに。だから卒業したら制作できないというのがわかるので、それで発表して挫折も味わってないので、もうちょっとやってればという反省も含めて、やればやるほど奥が深いという。ちょっと申し訳ないんですけど、例えば広告とかデザインの世界というのはチープなものに、それはヨーロッパのガッツりした現代美術が主流だった頃の話で、もう知れば知るほど深すぎるという。だから憧れ羨望の眼差しというのが華やかなバスキアというアメリカ的なものよりも、ちょっと暗めな歴史とか精神性を持ったヨーロッパの画面、制作のほうに少しずつ惹かれていったというのがそうですね。僕らの世代は多分、留学組でもアメリカに留学するよりも殆どがドイツとかイタリアとかそのへんに流れていきますんで、世代的なものでもあるんでしょうね。これは大阪だけかもしれないですけど。

大山:何かきっかけになる作品とかありますか。

粟国:それでとりあえず制作をしたいと、学生でありながら部屋を持っていたので四六時中、没頭出来るわけですよね。湯水のように制作に全てを注ぎ込むような期間が一年あって、だけどじゃあこれを発表するかどうかというのは、みなさんは在学中からグループ展とか、展覧会とか公募展とかに出してデビューしていくわけですね。何故か不思議なことに僕はそこでデビューしなかったという。これは確たる確信は無いですけど、これじゃ駄目でしょうという。俺が求めているクオリティというのは、これだったら自信を持ってというのは、例えばキーファーと自分を比べてみたらどうなのという。片手間ではボイスとかあの辺の抽象的な画面は作れるんだけど、何か上書きっぽいという。下敷きにしながらそれっぽいものを作るというのが、自分の自問自答の中でどこかにあったんで、これは発表は出来ないという。だからそのときには、早くデビューしなきゃとか焦りはまったく無い。自分の確信の持てる、背景と理由付けと必然性。それが無い限りは発表しないほうがいいというのがあったんですよね。だから僕らはエリートでもないので、たたき上げでもないので、その辺で勝負しないと作品としては恥ずかしいものしか出せないだろう。まだだろう、まだだろうと言ってる間に時間だけは過ぎていくという。

大山:その後、制作して発表していくわけですが、何かきっかけになるようなことはありましたか?

粟国:これはもう卒業して大学に非常勤で残っているときに起こった95年の震災なんですよ。阪神大震災のときに、ちょうど作りかけの作品があって、僕はもともとは油彩で混合技法と呼ばれるものを主体にキャンバスに向かっているんですけど、どうしても自分で納得できないことがあって、実験的にBOX型のオブジェクトを試験的に、発表する予定も無くて時間つぶしのように片手間でやってたものがなかなか面白くなって、それを大学の中で作っていたときにいい作品が出来たと思ったのが青ガラスの作品。95年の震災の年にできた。たまたま震災の関連した企画展に出さないかという話があって、これだったら自信持って出せる。これが僕のデビューのきっかけです。

大山:その時は震災で周りの状況も含めて、混乱した時期だったんじゃないかと思います。

粟国:そうです、95年の震災というのは青天の霹靂なので、一番ダメージを受けたのは社会的に町全体がね神戸が被害があって、大阪も被害があったんですけどさほど日常に支障は無い。神戸を中心とした災害だったんですけど、思わぬダメージを受けてきたのは実は作家さんなんですよ。例えば神戸の作家が制作を続けてきて、仕事しながら制作を発表していく。このスタンスで作家活動を続けてきたときに、アトリエがバラバラにつぶされちゃった、ギャラリーが発表する場所が機会が失われてしまった、制作それどころじゃないという。本当は半年後に予定していた展示が取りやめになってしまう。その時にもう先が見えないという。発表してそれで契約みたいなことをしていても全てキャンセルになっていくわけですね。じゃあ作家は何に向かって作り続けるかということを問われたときに戸惑うわけですよ。出品する予定も無いのに何故作るのか。日常の環境がそれどころじゃない、生きていくのが精一杯、命があってそれだけでも十分というときに。住むところも仮設住宅に居るは、仕事場も無くなるは、これからどうしようというときに美術のこと考えられないと。そこで制作するというのが、なにか後ろめたいんですよね。社会の役に立たないし、自分の表現とか言っても。だから神戸の町並みとか震災の社会の中で、彫刻を作っても何の意味があるのという、社会的に重要かどうかという自分がやってきたことを問われるわけですよ、初めての経験で。だから作家自体が精神的なダメージを受けて。根源的な何のために作りつづけるのかという考えもしなかったことを問われるわけです。これは、東北大震災のときでも同じ経験をした作家がいっぱい居ると思います。食えもしないし、役にも立たないし、それでも何故続ける。人を支えるのかそれともそれがあるから励みになったり心の支えになるというのは、どうしても音楽だったりとか。でも美術は余裕が無い限りは無用の長物なんですよ。だから無力感が凄いあったんですね。僕の周りの作家とか、そういう環境にいる人でどう再建するかという。それまではカツカツでやってるわけで。だからもう断念したり。一番衝撃的だったのはそういうことです。だから僕が大阪でデビューした青ガラスを出品したのは、それを考えようとする関係者が自分の立ち位置、どういう境遇に陥っていて切羽詰っているのかというシンポジウムがあって……。

大山:粟国さんにとっても一つの大きな……。

粟国:そうですね、僕が何気に震災と関係なく作っていたものが、実はそういうところでデビューして、僕の制作をした青いガラスのやつを見て、ちょっとでも救われたとか、何かを考えさせられたとか、自分はそういうつもりで作ってないんですけど、こういうところでちょっと時間を置いて見つめ直したときに自分たちと関係が出てくる。作品というのはそういう役割なんだなと、即効性じゃなくて。それが僕の制作の置かれた状況でしたね。

大山:作品についてお伺いしたいと思います。

粟国:素直にあれだけ沖縄っぽいと言われた青ガラスに嫌気がさして、離れよう離れようとした僕なんですけど、cubeシリーズになるときにはもう全面に必要なまでにシュガー・ローフについてやりましたから。だからそれでもう自分が吹っ切れたんですよね。嫌でしょうがないというものを完璧に自分が沖縄出身というものを受け入れた瞬間なのよ。これがダイアグラムをやっていたときのこと。一回全てを消し去ろうとした瞬間に、やっぱり残っちゃったから。

大山:青ガラスからダイアグラムの制作に至る過程で、粟国さんの中で大きな転換期となった。

粟国:転換期になった。だから青臭い言葉に出ないような葛藤みたいなね、意味も分からずに反発しようとか。これを素直に本当に考え始めようとしたきっかけというのがダイアグラム。だから東洋的なものも受け入れようと、西洋的じゃなくて。地元の沖縄の歴史というものも自分でもう一回掘り起こして、言われている通りじゃなくて自分のフィルターで全てを知ってから物をしゃべろうと。そこで次に行くのがcubeシリーズ、最初にやったのが戦争というもの。いわゆる沖縄の戦争観と呼ばれる、俗に言われているというやつですよ。それを本当に自分の目でみる。定説ではないものから史実から全てを網羅して客観的にニュートラルな立場で一回見てみよう。そのモチーフになったのがシュガー・ローフ。これが例えばあまりにも語りつくされているような「ひめゆり」だったり南部だったり、そういう特攻とかチビチリガマ、集団自決のような定説的なイメージじゃなくて、完璧にニュートラルな先入観の無いシュガー・ローフという場所をテーマにして沖縄を語ってみよう、歴史を自分で学んで構築してみようというのはあったよね。だから青ガラスで過去を制作していくというのが凄い遠回りのようだったけど、凄い早くて近道だった。結構自分で予定を立てながら、検証しながら自分を確認しながらだんだん現在の自分の立ち位置に近づいてきて、現状の社会問題とか、直接感情に訴えかけるようなキーワードだとしても、自分でそこで消化できるという。だからお勉強に近いよね、自分にとっての。知らなかったことを本当に知るみたいな。シュガー・ローフに関してもドキュメントっぽい作り方をしてるのは実はそういう感じで。自分でも良く分からないから調べながら、これが今のcubeシリーズだよね。

大山:そういう意味では粟国さんにとっての自分自身を振り返ることでもあるし、そこから現在を眼差すというか、そういう視点から見えてくるものをひとつひとつ形にしてる。

粟国:そうそう、だから思いつきで言われている通りの、自分自身に先入観としてあった例えば沖縄とか色んなものを、ほんとに最初疑うことから始めるよね。自分にそのままインストールするんじゃなくて、一回自分で確認して、じゃあそこから消化して自分のフィルターを通して制作して発表したものだったら、自分のものには間違いないんだよ。人とはちょっと違うかもしれないけどそれが僕のリアリティだったし、歴史に対してのリアリティだったり、環境とか生い立ち、過去の自分の環境のリアリティであろうという。あくまでも仮説でね。

大山:cubeシリーズはシュガー・ローフから入って、幾つかこれまで続けてきたと思うんですけど、もう少し一つ一つの作品についてお話を聞けたらと思います。

粟国:まずはcubeシリーズを始めるときに23の制作でやる予定を立てて、つまり一年に一回制作しても23年かかる、長期戦になるという。これは急いでもしょうがないので一つ一つ検証しながら自分のリアリティとして制作する。これがcubeシリーズの根幹なので、まずはじゃあ一番自分でも良く分からない、一番大きなテーマとなるだろう戦争という問題をまず取り上げて、避けては通れないので。まず一つ作ったのはcubeシリーズの1番と2番、つまり空からの視線と地上からの視線が対になるモチーフを選んで、空爆を取り上げる。爆弾を落とす側の視線、写真を使った制作。もう一つは地上からの視線で落とされる側の視線、どういう風な情景が映るのかというのをやった場合に、地上からの視線ということで沖縄戦を選んで。これは公文書館の記録なんだけど、公文書館の記録だから正確に言ったらアメリカ軍の視線なんだよね、写す側の。その中でももしかしたら日本の報道の写真もあるかもしれないけど、そばで落とされる側の視線で沖縄戦という、どういう人々が情景を見ていたかということをcubeシリーズで考えようと。そこでリサーチする中で本当は戦争というのはどういう情景だったのか、人の感情ではなくて本当の記録的な情報としてやろうという、まずそれがありますよね。あえてシンプルにした理由というのは、ちょうどちょっと前の話になるんだけど、湾岸戦争とかイラク戦争とかアフガン戦争となったときに、僕らが戦争をリアルタイムで見る風景というのは、衛星中継でLIVEで報道から流れてくるわけですよ。これをテレビでずっと見ている中で、同じ風景が公文書館で見れるわけですよ。なんら変わりはないという。過去の半世紀以上前の風景が、今テレビのライブ中継で同じようなものをやってる。じゃあ僕らが戦争と言ったときに、何故過去の戦争を学んでいるはずなのに、現在の風景をちょっと距離を置きながら冷静に見続けているという。そこに自分に疑問が出てくるわけですよね。何故止められないんだって。最悪の状況だった世界大戦というあの情景がもし「悪」だとすれば、何故今行われている「悪」を止められないのか。さらに例えばアフガン戦争だったら真っ先に僕らの社会というのは支持をしたわけですよ。反対するどころか肯定したわけですよ。これは僕らの社会にとっての罪だったし、過去の戦争が良くなくて、同じ情景を作り出していることというのは支持する。これは自己矛盾なのよ。というのがあって、この情景だけを提示しましょうといったときに僕が2つ連続で出したのは、空爆と呼ばれる《Gift》と呼ばれる、爆弾は贈り物というタイトルと《Sugar & Strawberry》という沖縄戦を題材にした作品をセットとして。だからこういう感じで大型のcubeシリーズというのは進んでいく。三つ目のテーマの中には、プルトニウムという核物質、戦争の延長線上で考えたときに普通だったら核爆弾の情景をやるんだけれども、実際問題、爆弾というよりも核物質。じゃあその情景はどうなのかという、放射能物質がある社会というのは僕らにとってなんなのか。これは結局核物質に焦点を当てたときに根本的に自己矛盾が生ずるのよ。核物質というものをクローズアップしたときに、じゃあ爆弾だったら駄目で原発だったらOKという。まずそれは福島の原発が爆発する前なので盛んにテレビ情報の視覚的な伝達の中で、原発のクリーンエネルギーというものを盛んにアピールするキャンペーンを張っているわけですよ社会の中で。その中で核爆弾というのは悪で、でもクリーンエネルギーとしての原発は未来にとって凄い重要なんだと盛んにコマーシャルをするわけですよ。それが凄く恐ろしくて自分で怖くなっちゃって、爆発するから核爆弾は駄目で核物質だけは良いのかというそのへんで理論破綻していくわけですよね。しばらく数年経ったときに福島の原発が爆発するので、その時に例えば破壊的な爆弾の爆発じゃなくて、静かに核物質がばら撒かれる。まさしく僕がやった《Trinity》というあの世界が実際に起こっちゃったんで。すごい気持ち悪いですよね。《Trinity》と同時に四つ目のキーワードとしてやったのが《Babel》という。《Babel》というのは放射性物質が何故大変危ないものなのかという。これが染色体に異常をきたすような後世に先天的な異常が出たり、生殖機能が麻痺したり、もしくは細胞が破壊されてがん化したり病気になっていったり、そのことが凄い恐怖なわけで、何も火達磨になることが恐怖ではない。これが《Trinity》というものと《Babel》というものとセットにして同時に関東のほうで発表した。これは時系列で、戦争から染色体。babel2、横浜でやった作品は戦争の公文書館の記録をcubeの全面に、染色体の写真を全部埋めるという。《Trinity》と染色体をセットにして同時に発表した。

大山:先程、「23」という数字がありましたけれども。

粟国:人染色体の数です。2000年に人ゲノム計画が終了宣言して解析されるというのを待ってからcubeシリーズは発表する予定だったので、2000年からの発表なんですよ。だから人ゲノムというのが、実は僕の制作の中には人の姿が出てこない。でも人そのものをテーマにしてるのはこの23という数字に内在して、暗示させて人そのものの染色体の全てのキーワードとして配置する。そのbabelというのもずばりそのもの染色体の構図を選んだ。だから人の業みたいな、戦争も人の業なら核物質と生きる今の放射物質と共存せざるを得ない社会にどう影響してくるのか、超現実的な世界をね。

大山:一度傷ついてしまった染色体が、傷ついたまま受け継がれてしまう。

粟国:そうそう、だから治癒ではないんですよね。染色体を傷つけるということは治療不可能なので。自分のせいではないんですよね。自分が何かやったから駄目じゃなくて体の内部から破壊されていく、それが継続的にコピーされていく細胞のシステムなので自分自身ではどうすることも出来ない。一個人で戦争が止められないどうしようもない社会であるならば、染色体を攻撃してくるような放射性物質《Trinity》の世界というのは自分自身でもどうすることも出来ない。もしくは環境中で放射性物質があるとしたら、今みなさんに知られるようになったんだけれども、例えば取り込んでしまったときに内部から自分からはどうすることも出来ない。これが性染色体の中で遺伝的なものになってしまったら、欠損のまま遺伝的なものになるんだったら、その子供たちも自分ではどうしようもない恐怖みたいなものを抱えながら、一種のタブーに触れるような非人道的な表現になっていく。これは広島、長崎の二世、三世に内在している自分たちの微かな不安材料でもある。実際はどうなのかは言明はしないので、でも超現実的な社会の中でcubeをずっと考えていこうという、その中でやってるのが《Babel》と沖縄の《Sugar & Strawberry》という舞台をテーマにした《Babel2》という、この時には映像をユニットでやって、その続編としての《Parantica sita》という。だから少しずつどんどんリンクして続けながら、時系列を一貫したものでやろうとするのがcubeシリーズ。過去の話ではないので、でも現在の話を制作する側が正しい解釈でやるかといったらそうではない。半分以上は未知の世界。知ったかぶりでやっているわけではなく精一杯の裏づけ、リサーチで調べて検証しながらやったところでやっぱり専門家ではない。でも最大限の努力をしながら制作を続けるという。これが10年先、20年先に振り返ったときにちょっと浅いねとかね、まだ知らなかったねとかそれは全然問題ではない。現在の社会を考えるということは、全部知ることが出来ないんですよ。自分自身でも正解を出すことが出来ない。でも社会の中で正解を出すことを辞めてしまえば、これはもう考えることを辞めることになる。これが俗に言う思考停止という正しい表現だと僕は思う。答えは出ないんだけれども、絶えず極限までギリギリまで情報を集めて自分を導いてリアルなものとして提示していく。これがcubeシリーズの根幹にある制作なんですよね。

大山:今回、新作の《Parantica sita》についてお話を聞きたいと思います。

粟国:《Babel2》、《Sugar & Strawberry》というcubeシリーズの中で派生してきたあまりにも大きな沖縄戦を題材にした制作だったので、そこの中でまだ未消化の部分、じゃあ未来に対してどう提示するのか。沖縄戦、シュガー・ローフというあの場所が未来に対してどういうものを提示してくるのかというもので、自分でも未消化のまま取り残された課題として未来というキーワードがあったんで、それを全部総称して一箇所にまとめてやろうとしたのが《Babel2》というテキストだった。そこの中には架空の未来のシュミレーションとしてのシュガー・ローフの風景がそこにある。次に出てきた《Parantica sita》というのは続編であって、その中で人そのものに焦点を当てて、多分は初めてなんですよcubeシリーズで人そのものに焦点を当ててキーワードとして持ってくる。でも意地悪な制作で人を暗示させるというもので、それを何かに置き換えて、人が大量に死んでしまうという戦争のシュガー・ローフのその場所の死というものをテーマにして、じゃあ死んだ人達はその後どうなるのか。まあちょっと霊魂的な話になるかもしれないけど、そういう意味じゃなくてじゃあ存在が消えた後に何が残るか。肉体とか生身の細胞が消えたときに何が残るか。残るのは記憶だったり情報だったり、記録写真とかね、物語だったり、絶えずその中で人々が生きていく過程としてね。これを蝶に置き換えるという作業をするときにParantica sita =アサギマダラというものの存在を知ることになる。これが人というものにParantica sitaを置き換えた場合でもちゃんと成立するように、物語が仮説として繋がっていくようにテキストを作ったのがParantica sitaのテキストであってButerfly Projectというものをやった。だからアサギマダラを制作のキーワードとしてモチーフとしてやるんですけれども、これは絶えず人の物語であって人が蝶に置き換わって旅をしてかすか希望を内在しながら移動し続ける。しかもそれが、限定された地域じゃなくて海を越えて国境を越えていく。広域な地点で活動を続けるシステムですよね。そこで一回アクションを起こして途切れるわけじゃなくてそれが延々と情報と記録みたいに長い間、人というものが死んだところでも物語として伝えられるようなシステムとして、社会の循環のような存在としてParantica sitaが象徴的なものとしてある。だから昆虫的な制作ではなく、人を暗示させるようなキーワードとして、人型のモチーフだったりとかが、現在新しい制作の中では行われている。もちろんこれは続いていきます、ここで終りではない。かなり息の長い制作になると思う。

 現代美術の中で本当のリアルを探すんだったら、多分答えは見つからない。YesかNoかの正しいか間違いかという紋切り型の物は見つからない。だけどベストではないけれどベターな方向には近づいていけるということだけは確かだよね。現代を語る、現在を考えるという意味では。もしこれに連続性を求めるんだったら、そういう表現だったり制作だったり作品として提示されたものというのは、やっぱりもう一度検証されて、再検証を次世代が行う。これの繰り返しが美術であって……。

大山:絶えず考え続けること。

粟国:そうそう、例えば沖縄を制作のモチーフにしたときでも、レッテル張りを一番避けなければいけないのが表現であって、仮説としての文献だったら紋切り型で結構なんだけど、これは後に検証される前提で発表される。僕らの表現というのも実は検証されるという必然性があってそれが時代と共に形式を変えたり、同じテーマで制作され続けるということが一番大事かもしれないよね。検証されなくなったら終わってしまうので、戦争とか沖縄の役割として例えば「平和」というものを検証する。もう一回時代と共に再確認していく作業というのは時代と共にちょっとづつニュアンスが違ってくる。絶えずそれがいつまでたっても同じイメージだったら原理的になってくるよね。それ以外は許されないような、それって結構危険なんだよね。

大山:粟国さんにとって沖縄とは何ですか。

粟国:まず沖縄というのは、僕が生まれた場所であって、他人事ではないというまずこれが前提としてあります。僕は大阪に四半世紀以上住んでいるので、実際は沖縄に住んでいる時間よりも関西に住んでるほうが長いんで、もしかしたら関西人かもしれない。だけど沖縄という自分の原風景というのはリセットは出来ない、かといってこれに執着するわけでもない。沖縄を離れたからって沖縄を消去できるわけが無くて自分の表現とか美意識とか制作、もしくは欲望の中には絶えず沖縄というものが存在するわけで。これはヨーロッパやアメリカではないのは確かなこと。じゃあ東京かといわれたら北海道かといわれたら、まったく無いわけで。その中で一番エキスとして濃いのは沖縄。だからここには自分の表現の原動力となるもののキーワードは確実に濃い状態で残っている。それがじゃあ沖縄というものに限定した表現もしくは自分の制作をするかといったらそうではなくて、たえず関西に住んでいながら、じゃあ関西と沖縄と共通する普遍性があるはずだという、これを大前提として、もしくは日本と沖縄、沖縄とアジアとか世界中で共通する何かを表現して探す、その中でキーワードになるのが沖縄をモチーフにするということだよね。だから変な語弊があるかもしれないけど、沖縄はモチーフに成りうるという。僕にとっては、それが沖縄です。

大山:ありがとうございました。

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